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最終回 教養教育の未来

2024/03/22

連載 教養教育の謎解き:大学のカリキュラムの普遍性と現代性

最終回 教養教育の未来

吉田 文

 一年間に及んだこの連載も最終回を迎えるに至った。古代ギリシアに端を発し、西欧の中世大学を経て、米国の近代大学においては必須だが歓迎されないという微妙な立場で生き延びてきた教養教育(リベラル・アーツ)である。西欧では、近代大学になる途上で後期中等教育にその内実を委ね、専門教育のみの大学が世界標準として普及した。米国のように教養教育を構成要素とする大学は、例外だった(第2回、第3回)。しかし、日本(第4回、第5回)をはじめ、韓国や台湾(第6回)は、第二次世界大戦後に大学をドイツモデルから米国モデルへ転換したことにより、学士課程において教養教育を義務化するという経験を経て、すでに70年余の歴史を刻む。
 専門教育のみの大学という西欧では、2000年前後から常識破りが生じ、教養教育の導入が主にエリート大学を中心に進められている(第8回オランダ、第9回イギリス)。そして中国(第7回)でも、また本連載では紹介することができなかったが、香港でも同様である。米国のように、すべての学生が学ぶことを前提にした教養教育に対して、近年登場した西欧や中国の教養教育は、一部の学生を対象にしていることに特徴がある。この違いは何に起因するのか。その断定は容易ではないが、何を期待して教養教育を導入・実施するか、すなわち教養教育に課された理念と関連が深いように思う。
 前者は、古代ギリシアに市民社会を担う政治的指導層の人格形成に端を発する。その時点ではエリート教育である。米国においては、民主社会を担う市民の育成という理念に転換し、それが日本・韓国・台湾に導入された。米国では、educated citizenという言葉が大学の理念に掲げられていることをよく目にするが、それは大学生は教育を受けた市民として民主社会に貢献すべきという期待を表現したものであり、そのための教養教育なのである。ただし、それはエリートの育成を目指しているとは言い難い。他方、後者の教養教育には、グローバル経済を牽引する経済エリートの育成という理念が明白に掲げられ、汎用的能力など能力やスキルの育成が期待されている。
 単純化すれば、前者の政治的役割を果たす人材の育成と、後者の経済的役割を果たす人材の育成という対比をすることができる。後者の教養教育はエリート大学の一部の学生が対象であり、専門教育ではすでに経済エリートの育成は果たせないと見なされた中で登場したこともあり、これまでのところ、おおむね成功の体を成している。
 それに対し、前者の場合、すべての学生を対象とするため、理念的な重要性は認めても、現実には専門教育との葛藤が生じやすく、教養教育の在り方は常に改革の対象になってきた。加えて、民主社会の市民の育成という理念は、すべての国で歓迎されるとは限らない。民主化を求めない政治体制下では、教養教育に課された市民の育成は体制と抵触する。事実、イェール大学とシンガポール国立大学との共同で設置されたリベラルアーツ・カレッジであるYale-NUS Collegeは、表現の自由が保障されない等の理由でイェール大は25年にシンガポールから撤退することを決めている。
 さて、日本は教養教育を導入して70年余、大綱化により教養教育の自由編成ができるようになって30年余になる。大綱化以前と比較すれば、教養教育として求められる単位数など全体としては縮減したものの、個別大学を子細に見れば、独自の興味深い取り組みを見い出すこともできる。しかし、教養教育に何を期待するか、その理念を何とするかについては十分に議論を尽くしてきたようには見えない。我々はこれから、日本の教養教育をどこに連れて行くのだろう。先行き不透明な中、世界のいくつかの地域の教養教育の動向を記したこの連載がどこかで役に立つことがあるかもしれないことを願って筆を置くことにしよう。



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