トップページ > 連載 現代大学進学事情 > 第10回 「過保護社会ニッポン」に風穴を開ける

前の記事 | 次の記事

第10回 「過保護社会ニッポン」に風穴を開ける

2019/05/10

連載 現代大学進学事情

第10回 「過保護社会ニッポン」に風穴を開ける

濱中淳子

 本連載ではこれまで、保護者(母親)を切り口に、現代大学進学事情の描写を試みてきた。「母親の子育て・教育観に関するアンケート調査」(概要は連載第一回を参照)を分析する中で滲み出てきたのは、一部の母親たちの頑なとも言える安定・安全志向である。欧米では「ヘリコプターペアレント」という造語もささやかれているようだが、こうした結果を見るにつけ、「過保護」や「過干渉」という言葉が頭に浮かんでくる。
 ただ、今回の連載の最後にあえて提示したいのは「問うべきところはそこではない」という見方である。「過保護」や「過干渉」という傾向が見られる母親たちは、なりたくてそうなっているわけではない。問うべきは、そのような保護者を生み出してしまう社会の側であり、より具体的に言えば、高大接続改革なのではないか―。こうした問いの立て方のほうが、よほど大事な意味を持っているように思えるからだ。
 高大接続改革と言えば、高等学校教育・大学教育・大学入学者選抜の三位一体を強調する現行の改革を思い出す方も多いだろう。ただ、関係者の間で高大接続という課題自体が意識され始めたのは、それより少し前に遡る。意識が芽生え始めたのは、およそ「高大接続」という言葉が初めて政策文書で使われた中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」( 1999年)が出された頃。その前後から、政府はキャリア教育の導入を推奨し、新しい段階の教育への円滑な移行を支えるさまざまなケアを要求するようになった。こうした動きを背景に、例えば高等学校では、生徒の関心や適性を強く意識する進路指導が行われるようになり、大学ではリメディアル教育や導入教育、初年次教育を実施するところが急速に増加していった。
 つまり、高大接続改革は、ここ20年の間に、政策に導かれる形で徐々に教育現場に浸透したものなのである。大学に進学する若者たちが困らないようにと、高校教員や大学教員が手取り足取りの指導を行うことが望ましいとされる。「過保護な保護者」レベルではない、「過保護社会ニッポン」とでも呼べる状況が作り上げられてきた。
 先に、保護者(母親)ではなく、社会の方が問題だと述べたのは、こうした事情による。中央省庁を中心に、生徒・学生たちに「転ばぬ先の杖」を率先して与えることを良しとする空気が作られているのだ。その空気に反して冒険・挑戦志向を貫くことができるのは、相当強い信念を持った保護者か、相当鈍感な保護者か。誤解を恐れず極端に言えば、そのどちらかである。
 そろそろ本連載を締めくくろう。10回に渡る本連載の執筆を突き動かしていたのは、私自身の現代大学進学事情に風穴を開けたいという、願いにも近い想いだった。いまの大学進学は、受験競争を問題視していたかつての時代とは異なる意味で問題を抱えている。そしてその元凶は、おそらく高校教育と大学教育を円滑に結ばなければならないという根拠なき「善意」にある。
 いたずらにスムーズな成長が肯定されるから、歪みが生じているのではないか。断絶や挫折を経験しない成長はもろく、キメ細かなケアはむしろマイナスの影響を与えてしまうのではないか。人生100年時代とも言われる中、成人になってからでも学びたい時に大学で学ぶシステムを強化することのほうが重要な課題なのではないか。そしてその強化が実際のものとなれば、過保護にならざるを得ない保護者の肩の力も、少しは抜けるのではないか。
 高大接続研究開発センターという組織に属する立場でありながら、なすべき仕事は
「高大接続」という言葉が安易に用いられる現状の危うさを冷静に説くことなのかもしれない。皮肉ではあるが、これがいまの私に見えている景色である。




[news]

前の記事 | 次の記事