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第9回 大学は過剰なのか

2021/02/12

連載 大学改革と高等教育政策

第9回 大学は過剰なのか

濱中 義隆

 本連載も残すところあと2回となった。これまで高等教育政策の目的のうち「質」と「アクセス」に言及してきたが、残るは「規模」についてである。政策目的としての「規模」とは、社会的に適切な規模の高等教育機会を供給することを意味する。私立大学が大多数を占める日本では、機会の供給という点で政府が直接的に果たしている役割は諸外国に比べて限定的と思われるかもしれない。しかし、大学・学部の設置認可および私学に対する補助金を通じて、高等教育の規模(入学定員・大学進学率)を実質的にコントロールしている。
 ひと口に社会的に適切な規模といっても、何をもって「適切」と判断するかは存外難しい。一つの考え方として、近い将来の産業構造や経済成長の予測から、必要な知識・技能を有する人材の量を推計し、それに見合う高等教育機会を供給するというものがある(かつてマンパワー政策と呼ばれた手法)。しかし、医師や学校教員など一部の専門職についてはともかくとして、学歴資格と具体的な仕事の内容との対応関係が必ずしも明確ではない日本のような社会において、しかも変化が激しく予測困難な時代にあって、こうした手法により大卒全般の必要量を算定することが著しく困難であるのは明らかだろう。
 一方、国民の高等教育への進学意欲に見合う機会を供給することも政策的には重要な課題となる。進学したくてもできない若者を大量発生させることは、社会への不満を高めるからである。実際のところ日本の高等教育政策では、大学進学率の地域間格差の是正の観点から、大都市圏の入学定員増を抑制した時期もあるが(近年同様の理由で再実施されている)、もっぱら国民の旺盛な進学要求に応える形で、設置認可による最低限の質保証を行いつつ、私立大学による進学機会の供給増を図ってきたというのが実態に近い。大学進学率が50%に達する今日でも、大学を卒業することは、高校卒で就職した場合と比べて7%程度の金銭的な便益(収益率という)をもたらすことが知られており、高等教育機関への進学は、個人にとって、依然として経済合理的な選択であることも付言しておこう。
 いずれにしても、社会的に適切な規模を言明するための決め手に欠けるがゆえに、「かつての大学はこうだったのに、いまは…」といったような素朴な大学過剰論が一部で流布されることになる。第2次ベビーブーム世代の、18歳人口がピークを迎えた1990年代初頭と比べると、大学数は約250校、学生数は50万人近く増加した。大学進学率も30%程度から54・4%(令和2年度)へと上昇したのであるから、学生の平均的な学力や資質・態度に変化が生じるのは当然であろう。しかし、そのことだけをもって大学過剰と見なすのは単純に過ぎる。
 紙幅の都合上、詳細なデータを紹介することはできないが、1990年代半ば以降の大学再拡張期に新設された大学では、大都市圏以外での地元進学者が多いこと、都市部に集中する伝統的な大学に比べて低所得層出身の比率や女子学生の比率が高いことなど、これまで大学進学において不利とされてきた層への「アクセス」の提供での寄与は大きいことが明らかになっている。また、小規模校が多いこともあって、教員・学生間での相互交流やアクティブラーニングの実施など、教育の「質」においても、優れている(少なくとも授業方法等の工夫が進んでいる)点が認められる。大学を「作りすぎた」ことが問題なのではない、ということは強調しておきたい。
 とはいえ、18歳人口のさらなる減少が確実ないま、「規模」の問題を無視して良いとは思わない。直近数カ年の大学進学率の変化を見ても10年後には60%に達することが現実味を帯びている。進学率60%の時代に見合う高等教育システムを構想することが、政策的にはむしろ重要な課題となっている。



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