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第2回 米国で生き延びた教養教育

2023/05/29

連載 教養教育の謎解き:大学のカリキュラムの普遍性と現代性

第2回 米国で生き延びた教養教育

吉田 文

 今回は米国を取り上げることを予告していたが、その前に、ヨーロッパの近代大学の誕生について少し話をしておきたい。それというのも、米国の特異性を知るためには、比較対象としてヨーロッパが必要になるからだ。
 中世大学は16世紀頃には衰退への道を辿る。そして、大学外で生じた科学革命を経て、大学が再び生まれ変わるのは19世紀初期のドイツだ。近代大学と称される所以は、そこでの教育内容が近代学問(discipline)から構成され、かつ学問的知識は生産されるものであり、知識生産には研究という活動が必要だという概念が広く浸透したことによる。教育と研究の統合という理念のもと、ゼミナールやラボといった現代の大学にまで継承されている制度が作られた。
 では、こうした近代大学において、中世大学の自由七科はどうなっただろう。結論から言えば、それはヨーロッパの大学から消滅した。しかしながら、自由七科に由来するリベラル・アーツの命脈が絶たれてしまったわけではない。場と形を変えて存在した。それは、中等教育機関において、大学への進学準備教育としてである。
 現代の我々が想定する中等教育と高等教育が制度上の接続を持つのは近代に入ってからだ。その結果、大学への就学年齢が上昇した。また、中等教育機関は、生徒の将来の進路に応じて3分岐し、そのうちの一つが「ギムナジウム」「リセ」「Aレベル」などと称する大学進学を目指す生徒のみを集める機関となった。こうした制度上の変化を背景に、リベラル・アーツは大学進学準備教育を行う中等教育機関において実施可能となったのだ。
 近代以前は、大学生と言っても10代半ばの者も多く、そうした学生に対しては多様な学問を幅広く学ぶリベラル・アーツが不可欠だったが、その必要がなくなった近代大学成立以降、リベラル・アーツは中等教育の責任、大学は専門教育の場という役割分化が生じた。
 これを前提にして、米国を考えてみよう。米国でカレッジ(college)という現代の大学の前身の教育機関が誕生したのは17世紀後半だ。それは、いまから見れば中等教育機関で、在学生の年齢は10代半ば。それもあって、多様な必修教科から構成されたカリキュラムであり、それが古典古代からのリベラル・アーツに由来するものとされた。当時、米国はドイツの近代大学に追いつくべく努力を重ね、ようやく大学(university)と称し、学問を教える場となったのは19世紀後半である。その時、カレッジのリベラル・アーツはどうなったか。結論から言えば、米国ではリベラル・アーツという要素を、中等教育機関に降ろすことができなかった。その理由を、ヨーロッパがそれを可能とした二つの要因に照らして考えてみよう。第一の要因である教育機関の接続による就学年齢の上昇は、米国でも可能だった。しかし、米国の場合、中等教育機関は大学との接続関係よりも初等教育との接続関係を重視したため、第二の要因としての中等教育機関の分化が生じることはなく、ハイスクールはすべての希望者に開放された教育機関となった。そのため、大学進学準備教育としてのリベラル・アーツを中等教育機関に降ろすことがかなわなかった。近代大学の時代、リベラル・アーツは米国の大学で生き延びることができたのだが、それが大学の望むところではなかったことは皮肉である。米国の大学はカレッジ時代から4年制で、近代大学成立後、その下級の2年が一般教育(general education)という教育課程に当てられ、多様な学問を幅広く学ぶ場とされて現在に至る。学士課程のカリキュラムは、一般教育と専攻(major)と自由選択(free electives)から構成されるという構造は、その頃に作られたものだ。
 リベラル・アーツは米国で生き延びたが、それは米国の大学の災厄ともなった。次回はそれについて話したい。



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