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第3回 米国における永続する対立

2023/06/26

連載 教養教育の謎解き:大学のカリキュラムの普遍性と現代性

第3回 米国における永続する対立

吉田 文

 米国の大学は、リベラル・アーツを一般教育という教育課程として残さざるを得なかったのだが、それ以来、学士課程は常に一般教育と専門教育の闘技場であり続けている。学問の専門分化に伴い、特定の専門を深く学修する要請が高まる中、4年間という限られた時間にどのような教育内容を盛り込むか、両者のせめぎあいが続く。しかし、なぜ一般教育は専門教育の要請を跳ね返すことができるのだろう。
 前回は、選抜的な中等教育機関の欠如を理由に挙げたが、それだけではない。一般教育そのものに専門教育とは異なる理念が掲げられており、それが米国の大学に一般教育が地歩を占めている大きな理由なのだ。その理念とは、リベラル・アーツを幅広く学修し円満な人格を形成する、必修のコア・カリキュラムによって学生間に共通の学修経験を与える、それにより教養ある市民(educated citizen)を育成することができるというものだ。米国において、「市民」という概念は移民社会を統一する紐帯であり、その市民を育成する大学の役割は重要だった。
 専門教育の比重が高まりがちになるが、そうすると西欧の古典を購読し議論する「グレート・ブックス」という必修のコア・カリキュラムが作られたり、大学内に一般教育を行う2年制カレッジが設立されたりと、一般教育の回復運動が生じる歴史を繰り返してきた。これらの事例は、いかにこの理念が強いかを示すものと言えよう。ちなみに、リベラル・アーツを構成している学問領域は多岐にわたるが、職業と直結しない非(専門)職業的な学問とされていることを注記しておきたい。例えば経済学はリベラル・アーツだが、経営学は組織の経営という職業が想定されるという点でリベラル・アーツではないといった区別がある。
 では、4年間の教育課程において一般教育と専門教育とは、どのような関係構造にあるのだろう。約90%の大学が採用している配分必修(distribution requirement)という一般教育の方式をもとに説明しよう。大学教員は専門分野を同じくする学科(department)に所属する。学科はその専門分野の学士号授与の単位であり、学士号に必要な4年間のカリキュラムを編成する。そのうちの1〜2年次用の科目が一般教育科目としても提供される。これら各学科から提供された一般教育科目は人文、社会、自然科学などの括りに配分され、各括りで一般教育として修得すべき単位数が規定される。学生は、各括りにある科目から、必修単位数を満たすべく科目を履修していく。
 この方式は、専門分野の学修のためのカリキュラムの一部を一般教育に援用し、提供された多数の授業科目をいくつかの括りから必要単位数を履修するという巧妙な仕掛けの中で成立している。しかし、括りの中からの選択に、どのように一貫性を持たせることが可能かという別の議論を生じさせる。選択の幅広さ(breadth)と選択の結果としての一貫性(coherence)の折り合いをどのようにつけるか、これが米国の一般教育の永遠の課題なのだ。
 他方、専門分化した学問の要請は、この枠内では収まらない。専門分化した学問は学士課程を突き破って、学士課程に続く大学院という新たな制度を生み出した。2年間で満ち足りない学術的な専門教育、学士課程では充足できない専門職業教育は、大学院という制度で吸収した。世界の高等教育制度において大学院は米国の発明品と言われるが、学士課程に一般教育を抱えねばならない中、苦渋の選択として登場したことはどれほど知られていよう。
 20世紀後半、一般教育をそのシステムに含む米国の高等教育は、第二次世界大戦の勝利を経て、東洋と西洋にもたらされることになる。東洋の代表が日本、西洋の代表がドイツだ。戦勝国と敗戦国という政治的帰結が、教育システムにどのような影響を与えるのか。次回は日本を事例として、それを検討しよう。




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