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第4回 日本での実験の開始
2023/07/31
連載 教養教育の謎解き:大学のカリキュラムの普遍性と現代性
第4回 日本での実験の開始
吉田 文
第二次世界大戦の終戦後、日本は米国の教育システムに倣うことになった。高等教育に関して言えば、戦前期の多様な高等教育機関をすべて四年制の大学にし、その前半の二年を一般教育(general education)に、後半の二年を専門教育に充てることになった。戦前期はドイツに倣って三年制の専門教育のみであったから、大学関係者は一般教育とは何かが分からず右往左往した。かつ、三年間の専門教育が、一般教育の導入により二年間に短縮されたことに対する苦情は、とりわけ理工系を中心に噴出した。
最終的に、人文科学・社会科学・自然科学の科目を各12単位、語学を2科目8単位、保健体育を4単位履修して修得することが一般教育の必修(卒業要件単位124単位の約4割)と定められ、昭和24(1949)年に新制大学が発足した。これは後に「大学設置基準」に規定され、すべての大学が遵守すべき事項となった。一般教育の科目は、専門教育とは別に設定されることとなったが、最大の課題は、誰がその一般教育科目を担当するかということにあった。大学で専門教育を担当していた教員は、それをやりたがらない。そこで、以前は大学ではなかったが、新制大学の一部になった旧高等教育機関である師範学校、旧制高等学校等の教員が、一般教育の担当とされた。当時、それ以外の選択肢はなかったとはいえ、一般教育と専門教育の科目および担当者を区分したことは、大学内部の分断を生じさせることになり、後々の桎梏(しっこく)となっていった。
米国はと言えば、前回述べたように基本的に科目や担当者の区分はなく、ある科目は一般教育としても専門教育としても履修することができ、学科所属の教員は、下級学年・上級学年どちらの科目も担当する。少しずつ学問の専門分化が進み、その下級の部分が一般教育として残された米国と、当初から専門分化した学問体系を導入し、その後に下級部分を新たに導入せよと言われた日本との違いは大きい。専門教育主体の高等教育システムに幅広く学ぶ一般教育を導入したのは、おそらく日本が世界最初であり、まずもって実験だったのである。その実験の成果はいかに。一つは、専門教育からの攻めである。「専門基礎科目」というカテゴリーのもとに専門教育の基礎科目を一般教育に代替する仕組みが設定された。理系の学部はこれを大いに利用した。また、人文・社会・自然科学科目の各12単位の枠を緩めて自由化する仕組みも設定された。各専門学部の教育の論理に従って利用された。専門学部からの要請に応えた形で、どの学部の学生も同量の一般教育を学修するという仕組みは少しずつ変容していった。
また、一般教育担当組織や担当者からは、人文・社会・自然の領域を横断する総合科目の設置によって一般教育の新たな領野を開拓しようとする試みがなされ、一定の成功をみるに至った。また、国立大学の教養部(一般教育担当教員の組織として約三分の一の国立大学に設置されていた)の教養学部への改組も試みられたが、これは学内外からの圧力により成功をみたのは数例にとどまる。というのは、学内からは人文・社会・自然の領域を範疇におく教養学部に対して、文学部や理学部から領域が重なるという反対に遭い、いざ学内の合意を取りつけて文部省の大学設置審議会に申請すると、「教養学部」とは専門がない、そのような学部は認可できないという極めて浅薄な理解のもとに否定されて頓挫したのだ。
結果、平成3(1991)年の大学設置基準の大綱化において、一般教育に関する規程は廃止された。そして、大学は一般教育相当の教育を自由裁量のもとに置くことができるようになった。40年ほどの一般教育の桎梏は雲散霧消した。一般教育のみ担当という教員も見受けられなくなった。では、その後日本の大学は一般教育的な専門が始まる前の段階で幅広く学ぶという教育課程をどのように扱ったのだろうか。
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