トップページ > 連載 高校生のための大学四方山話 > 第1回 大学教員というお仕事

前の記事 | 次の記事

第1回 大学教員というお仕事

2024/04/23

連載 高校生のための大学四方山話

第1回 大学教員というお仕事

村澤 昌崇

 みなさんは、「大学教員」「大学教授」についてどんなイメージをお持ちだろうか。高校の先生の多くは大学生として教育学部等の授業を通じて、そして社会教育主事講習において大学教員と接する機会もあるため、具体像を描きやすいだろう。他方、高校生の多くにとってのリアルな大学教員との接点は、大学から高校への出張講義、大学説明会、オープンキャンパス等に限られているのではないかと思う。ほかには、大学のパンフレット、SNSやTV・新聞雑誌の各種メディア等において専門的見地からコメントを投げかける様や、時として不祥事や不正等により半ば芸能人かのように炎上を招く様など、大学教員の断片的な姿に接する機会があるくらいだろうか。
 しかし、十数年前に大学進学率は50%を超えたため、いまや高校生の二人に一人は近い将来大学教員のリアルに接する機会があることになる。大学進学率が10%にも達していなかった、いわゆる大学「エリート」の時代はいまは昔。それだけ今日は大学が当たり前で身近になり、同様に大学教員という存在が身近になったということでもある。
 ところで、我々の業界では、大学のこのような状態を「大学の大衆化」と称することが多い。ただしこれに言及する場合、「学生の大衆化」≒学生の質の低下や多様化と同義であり、これを御旗の印に掲げた大学関係者によって「リメディアル(補習・学習支援)」や「質保証」、大学生の「学習成果」等のキーワードと共に、学生の大衆化に対処すべく延々と改革が進められて今日に至っている。
 ところが、である。こうした潮流には「ちょっと待った」をかけねばならない。なぜなら、「大衆化」したのは学生だけではないからだ。進学率の上昇に伴う大学生数の増加に連動して、半ば当然のごとく教員数も増加している。そうしないと教員一人あたりの学生数が増え続け、数値上の教育の質が低下しかねないからだ。ゆえに原則として、各大学は学生定員を増やす際には、それ相応の教員の増員が求められるのである。
 では実際、大学教員数はどの程度増えたのか。昭和25(1950)年時点の大学教員数を基準とした場合、令和2(2020) 年の時点では大学全体の教員数は16・5倍、国立大学の教員数はおよそ11・6倍、公立は13・2倍、そして私立に至っては22・6倍となっている(『学校基本調査報告書』各年度版から引用・作成)。これらの単純な数値だけを見ても、大学教員も大衆化という名の質の低下を招いていてもおかしくはない。
 しかしながら上述したように、大学の大衆化が語られる場合、ほとんどが学生の問題に収斂し、大学教員の大衆化やその質が問われることはまれである。もちろん大学教員の質の維持向上に関する取り組みが無いわけではない。一例として挙げるとFaculty Developmentという大学教員能力の維持向上のための取り組みや研修が政府から義務化されているが、毎年恒例の決まりきったタスクとなり半ば形骸化している感もある。
 もっとも、大学教員の質を一概に議論できないことにそれなりの「建前上の」理由はある。そもそも大学教員の「研究」は高度な専門知識の塊であり、その質を評価するにも高度な専門知識を必要とするため、同業他者による評価となることが普通である。このことを同僚評価(Peer Review)と称する。大学教員はこれを自主・自律により半ば排他的に行うことを権利かつ責務とし、「大学の自治」と称して職業上の地位と権威を形成・維持してきた。
 大学教員のこのような性質がこれまでは社会との間に距離を作り、大学は象牙の塔と化してきたわけだが、先にも見てきたように大学教員も大衆化・変容し、さまざまな課題を抱え〝大変な時代〞を迎えて久しい。本連載では、当面大学教員にさまざまな角度から光を当て、自戒も込めながらみなさんに紹介していく予定である。



[news]

前の記事 | 次の記事