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第2回 状況論から考えるキャンパスの役割(下)
2025/06/18
連載 関係性から考える大学のアレコレ
第2回 状況論から考えるキャンパスの役割(下)
佐藤 万知
前回ふれた状況論について、「コミュニケーション能力」を例にもう少し解説した上で、キャンパスについて考えていく。
状況論という考え方においては、知識や能力は“状況の中”にあると概念化される。例えば「あの人はコミュニケーション能力が高い」と言う時、状況論では、コミュニケーション能力というものを、何かの物差しで計ることが可能な、個人が固有に所持するもの、すなわち状況に関わりなく存在するものとして考えない。状況論的には、特定の場面の中で、適切なコミュニケーションの取り方ができている人をして「能力が高い」と表現する。仮にその状況において、言葉巧みに自分の考えや感情を伝えるよりも、自身の体全体を使って表現することが求められている場合、それを理解して、後者のような態度を取ることができる人を指して「コミュニケーション能力が高い」とする。すなわち、学習とは状況に参加することにより状況に埋め込まれている知識・能力を身につけていくことを意味する(状況論では状況の側も変容するという双方向性が議論されるが、ここでは割愛する)。
このような立場で考えると、キャンパスとは大学という状況に参加をする場となる。大学には、大学特有の時の積み重ねと文化、実践があり、特定の状況となっている。その状況に参加することで、そこに埋め込まれている知識や能力等を身につけ、新入生は大学生となっていく。大学での学修に関してよく耳にする説明を思い出してみよう。大学での学びでは、正しい答えに辿り着くことが求められるのではなく、ある事について、これまでに明らかにされてきたことを知り、その上で、自分なりの問いを立てることが求められる。そういう状況では、先生が教える内容を“答え”として扱う態度は、「よくできる」とはみなされないだろう。教授内容をリソースにしながら自分で考え行動することに価値が置かれる。こうしたことについて学生が知るのは、キャンパスに体現される大学という状況に参加し、教員や他の学生の態度、自分自身の言動に対する他者の反応、与えられる課題、建物に貼られているさまざまな活動に関するポスターや案内、図書館や学習スペースの経験を通してであり、やがて学生は自らの学び方を調整するようになる。
そこで「キャンパスは必要なのか」という問いに対して、キャンパスを建物や施設がある場所(土地)としてだけで考えると、その必要性はどのくらい稼働しているのか、という指標で測られることになる。しかし、状況論的に考えると、キャンパスという場に参加することが大学生になるという学習そのものなのだ、ということになり、必要性に対する議論の仕方が様変わりする。
ここで考えるべきは、キャンパスにどっぷりと浸かり生きてしまっている「大学人」は、キャンパスという状況にどのような文化や実践が埋め込まれているのか、そして何が新入生の大学生になるプロセスにおけるリソースになるのか見分けられなくなっている点であろう。リソースがリソースとして認識されるためには、それを活用する状況(場面)こそが必要だ。仮に、キャンパス内に学生が自由に使うことのできるラーニングスペースが設置されていても、ラーニングスペースを用いようと感じさせる状況がなければ、そのスペースはリソースにならない。あるいは、たとえ学生自治という仕組みがあっても、学生をお客様扱いするような状況しかないのであれば、その仕組みは学生としての権限や責任について考え経験するためのリソースにはならない。つまり、大学という状況を維持し続けるためには、長く大学にいる人々こそ、キャンパスのビギナーである新入生との関わりを通じて、状況を分析し、再構築していくことが大切なのだ。
次回はオープンキャンパスの季節に向けて、大学にあるモノと人の関係性について話題を提供する。
第2回 状況論から考えるキャンパスの役割(下)
佐藤 万知
前回ふれた状況論について、「コミュニケーション能力」を例にもう少し解説した上で、キャンパスについて考えていく。
状況論という考え方においては、知識や能力は“状況の中”にあると概念化される。例えば「あの人はコミュニケーション能力が高い」と言う時、状況論では、コミュニケーション能力というものを、何かの物差しで計ることが可能な、個人が固有に所持するもの、すなわち状況に関わりなく存在するものとして考えない。状況論的には、特定の場面の中で、適切なコミュニケーションの取り方ができている人をして「能力が高い」と表現する。仮にその状況において、言葉巧みに自分の考えや感情を伝えるよりも、自身の体全体を使って表現することが求められている場合、それを理解して、後者のような態度を取ることができる人を指して「コミュニケーション能力が高い」とする。すなわち、学習とは状況に参加することにより状況に埋め込まれている知識・能力を身につけていくことを意味する(状況論では状況の側も変容するという双方向性が議論されるが、ここでは割愛する)。
このような立場で考えると、キャンパスとは大学という状況に参加をする場となる。大学には、大学特有の時の積み重ねと文化、実践があり、特定の状況となっている。その状況に参加することで、そこに埋め込まれている知識や能力等を身につけ、新入生は大学生となっていく。大学での学修に関してよく耳にする説明を思い出してみよう。大学での学びでは、正しい答えに辿り着くことが求められるのではなく、ある事について、これまでに明らかにされてきたことを知り、その上で、自分なりの問いを立てることが求められる。そういう状況では、先生が教える内容を“答え”として扱う態度は、「よくできる」とはみなされないだろう。教授内容をリソースにしながら自分で考え行動することに価値が置かれる。こうしたことについて学生が知るのは、キャンパスに体現される大学という状況に参加し、教員や他の学生の態度、自分自身の言動に対する他者の反応、与えられる課題、建物に貼られているさまざまな活動に関するポスターや案内、図書館や学習スペースの経験を通してであり、やがて学生は自らの学び方を調整するようになる。
そこで「キャンパスは必要なのか」という問いに対して、キャンパスを建物や施設がある場所(土地)としてだけで考えると、その必要性はどのくらい稼働しているのか、という指標で測られることになる。しかし、状況論的に考えると、キャンパスという場に参加することが大学生になるという学習そのものなのだ、ということになり、必要性に対する議論の仕方が様変わりする。
ここで考えるべきは、キャンパスにどっぷりと浸かり生きてしまっている「大学人」は、キャンパスという状況にどのような文化や実践が埋め込まれているのか、そして何が新入生の大学生になるプロセスにおけるリソースになるのか見分けられなくなっている点であろう。リソースがリソースとして認識されるためには、それを活用する状況(場面)こそが必要だ。仮に、キャンパス内に学生が自由に使うことのできるラーニングスペースが設置されていても、ラーニングスペースを用いようと感じさせる状況がなければ、そのスペースはリソースにならない。あるいは、たとえ学生自治という仕組みがあっても、学生をお客様扱いするような状況しかないのであれば、その仕組みは学生としての権限や責任について考え経験するためのリソースにはならない。つまり、大学という状況を維持し続けるためには、長く大学にいる人々こそ、キャンパスのビギナーである新入生との関わりを通じて、状況を分析し、再構築していくことが大切なのだ。
次回はオープンキャンパスの季節に向けて、大学にあるモノと人の関係性について話題を提供する。
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