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創刊号 千葉商科大学・千葉短期大学 加藤 寛学長インタビュー

1999/12/25

加藤 寛(かとう かん)

一九二六年、岩手県に生まれる。

一九五〇年、慶應義塾大学経済学部卒業。経済学博士。

六六年、同大教授(経済政策・公共経済専攻)。

九〇年、同大総合政策学部長として、湘南藤沢キャンパス(SFC)を開設。わが国初と言われるAO入試を導入。

現在は、千葉商科大学・千葉短期大学学長・慶應義塾大学名誉教授として、大学教育の改革を進める。

八一年第二次臨調では国鉄・電電・専売の民営化を進めた他、厚生省人口問題審議会、大蔵省金融制度調査会、農水省米価審議会等歴任。九〇年から政府税制調査会会長として活躍。著書に「教育改革(丸善)」「慶應湘南藤沢キャンパスの挑戦(東洋経済新報社)」他多数。テレビ東京「カンカンガクガク」(毎週土曜日朝八時三十分より放送)にてホスト役をつとめる。

変わりゆく大学、短大21世紀への展望

二〇〇〇年、二十一世紀へのカウントダウンを迎え、大学改革の波が大きなうねりを見せようとしている。国際化が進み、社会全体が変革を求められる中で、大学は自らをどのように位置付け、どのような教育を指向し、どんな人材を育成しようとするのか。

 今回の学長インタビューは、かねてよりドラスティックな変革を求め、大学の可能性を提示してきた千葉商科大学・千葉短期大学の加藤寛学長に、教育大出身で、現在フリーアナウンサーまた大学審議委員会委員として活躍する青山佳世氏が聞く。

時代が求める変革  -実践する学問を前提に-

青山佳世氏(以下、敬称略)

 本日はお忙しいところ貴重なお時間を頂きまして、ありがとうございます。いよいよ二十一世紀、新しい時代がスタートしようとしています。国際化―グローバル社会が大きくわが国を包み込み、 すべての面での変革が求められています。中でも「教育改革」こそは、次代を担う人材を育成する上で最も注目され、速やかな実行課題であるといわれています。私も大学審議会委員を仰せつかり、責任の重さを痛感しています。加藤先生は「自由な大学」の持論を慶應大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の創設で、大学改革の先鞭をつけられました。

 またこの度は、その第二弾ともいうべき新しい試みに、千葉商科大学・千葉短期大学の学長として取り組んで おられるとおききしますが、まずはそのお話から伺います。こちらの政策情報学部の案内を見ますと、「大学が変わる、先生が変わる―」ということがメイン・テーマになっていますが、これはどんなふうに変わるんでしょうか。

加藤寛学長(以下、敬称略)

 いま大学というのが 時代に合わなくなってきているのは、誰がみても明らかなんですね。ところが、どういうふうに合わなくなっているのか、合う、合わないといっても、いろいろな形が考えられます。必ずしも一概に、こういうふうに変わればいいということはないんです。ただ一つ言えることは、私達が学んできた学問がつねに最高のもの、絶対のものではないということです。ところが大学の先生というのは、自分の言うことをちゃんと聞き、守らない者は、できない学生だと頭から思っているところがある。それが結果的に学校に対する不信というか、勉強する意欲を失くすことにつながってしまうんです。なるべく学校から逃げたくなる、そういう感じにさせてしまう。

 そういう意味で私達は、学校という所は、教師が教える所ではなく、学生と教師が一緒になって勉強する所であるという前提で考えています。従って大学教師というのは、ただ教壇に立って教える立場であるというのは駄目なんです。学生にしても、例えば在学中の四年間の間に何ヶ月かは、外に出て仕事をする。そしてその経験を勉強に活かすというふうに考えています。つまり常に実学というか、実践していく学問を前提において考えているというのが、私達、千葉商科大学の考え方です。

 そして、その実践というのが「政策」なんです。人間の個人生活においても、その時々で様々な方法を考えますね。自分の置かれた状態を考えたり、あるいは今日は 天気がいいから歩こうとか、いろんな方法で選ぶんですね。そういう選択をいくつもしながら、人生でやることを決めていく。それは人でも会社でも、それから組織でもそうだし、あるいは政府にしてもそうでしょうね。そういうふうに国も、すべての個人もそのように考えながら動いているということを知らないといけないのです。

 ところが今までの学問にそうした考えはなく、「過去の知識を覚えなさい」という教育ですから、覚えるだけで、それをどういうふうに使ったらいいかということが、全く判らないわけなんですね。ところが、その「政策」を 今、やらなければならなくなった。

 また、大きな一つの時代の流れとして、自分のやりたいことを実行に移すには、とてもメディアが重要になっています。「情報」というものが非常に大きな役割を果たすわけです。私達は「情報」というものをとり入れな がら、その「情報」をリテラシーといいますか、いろんなメディアを使いながら集め、「政策」を決めなければならないわけです。「政策」を決める時に何も判らないで決めたら、それは独断です。いろんな条件を考えながら、モデルを作って実行する―これが「政策」です。即ち「情報」と「政策」が一体となって考えられるということで、「政策情報」という考え方が生まれたわけです。

情報は人に伝えて価値  -政策情報学科 学問で考える場に-

青山 政策情報学科の設置の意味や背景については、よくわかりました。具体的な取り組みについてはいかがでしょう。

加藤 情報というのは面白いものでね、自分だけが持っている情報というのは価値がないんですよ。人に伝えることによって価値が出るのです。と同時に、人に伝えた途端に情報の値打ちが下がり、なくなってしまう場合もある。そこで政策をやりながら常にそれを発表し、さらにその情報を繰り込んで、また新しい情報を作っていくようにしないと政策情報というのは完成しないんです。こういうことを考えながら、私達は政策情報という学問を作るような学部をつくっていきたいと考えているんです。

 そうしますとね、現代では、個別科学を越える課題例というのがいっぱい出てきています。例えば環境・都市問題というのは、技術とか知識だけでは解決できないんですね。古い昔からの伝統がある町家の隣に大きなマンションが建つという。これに対して当局は、マンションを建てるに際して、高さも別に制限突破していないし、広さも法を侵していないということで、認めます。ところが町家の住民からみると、私たちの町は、昔からの伝統ある佇まいのもとに庭があったりする。それが全部破壊されるという。これはやはり考えてみるべきですね。しかし、実際には止める方法がないんです。これが環境都市の問題。環境とか都市とか、それに建築技術とか、今までの街づくりの条例をもって解決できる問題ではなくなった。つまり一つの知識だけでは答えが出なくなった。そのことをよく考えてみる必要があるということです。すでに個別の科学を超えているわけですから。

 それからNGOとかNPOというのもそうですね。今そうした組織活動が増えている。これが経営学ですか、商学なんですかといったら、全部範疇に入ってこないということになるんです。つまり経営学とか経済学とか、あるいは商学にしても、みな利益を上げる組織の考え方です。利益を上げない組織には、あてはまらないわけです。NPOは、Non Profit Organization(非営利組織)。非営利組織というのは、営利をなくし存在するには、どうしたらいいんだろうかということについて、答えをもてなくなっているんです。

 さらに情報がどんどん進展しますから、それによってメディアも多様化してきます。コンピュータ・リテラシーという言葉がありますが、これはもう古い。昔の話ですね。もうメディア・リテラシーなんです。そういうふうに考えていきますと、今の時代は、多くの新しい問題がおこってきているのに対応できていないんです。これは、総合的な視野をもたないといけない。つまり、町家の隣に大きなマンションが建ったことについて、伝統的な歴史を考え、あるいはその庭が本当に意味があるのかを考えるなどということは、もう学問を超えている問題なんです。そういうことを全部入れて考えないと、政策的な判断ができない。

 それから問題発見を自分でやって、解決するにはどうしたらいいかを考えるんですが、今の大学は教育していない。アメリカには政策という言葉を使った学部はどこに行ってもあります。これが日本にはなかった。慶應の総合政策学部というのが初めてです。当時、申請に行くと「政策学部ってなんですか」ときかれる。「ポリシー・スクールですよ」というと、「それは大学院でなければ、できないんじゃないですか」と言われる。そんな感じです。今でこそ政策学部や政策科学部は当たり前ですが。これまで日本は、ポリシー・マインドといいますか、政策を常にどう実行するかということを前提に置かないで、研究してきた傾向があります。だから世の中の理屈から外れていることが平気で行われるなんてことがあるわけです。例えば、今、日本は景気が悪い、不況である。だから企業はコスト削減のためにもっとリストラをやりなさいというが、これは経済学の発想です。経営学でもそうです。しかしリストラをやるということは、そのリストラされた人達がどこへいくのかが問題になるわけです。しかもその人達がこれからどんな職業につけるのかも問題になりますが、そのことに対して、経済学や経営学は何も言っていない。みんな個人が努力しろ、と言っているだけです。私は、これは学問ではないと思う。学問というものは、こういう方向で行くと決めたら、その結果が何をもたらして、どういうことになるのかを考えて、その答えを出さなければいけないものです。そういうことができない学問は実学ではない。つまりそれは実践する学問ではないと思っているんです。だから私は政策情報学部は、一私大の新設学部ということだけではなく、実践する学問を大いにやっていく所だというふうに位置づけています。

TOEICに取り組む -千葉商大が全国の中心に-

青山 そういう意味で、一つの学問ではとらえられない総合的な視野をもった人間を育てるという、新しい発想による政策学部は画期的だと感じます。この学部を創られるにあたっても、慶應の湘南キャンパスをお創りになった時と同じ発想で、教授の先生方との話し合いだとか、教授陣と学生さん達との関係だとかを念頭において、新しい試みをなさったんでしょうか。

加藤 はい。まあやり方としてはそうですね。SFCでやったことは大体うまくいったと思うんです。それをここでもやってもらおうと思っていろいろ始めたんです。しかしこの大学で始めてみて、 SFCに欠けているものに 気がついたんです。それは 何かといいますと、この大学は商科大学ですから、読み・書き・算盤というものに、とても熱心なんです。そういう面での商学系統の研究はずい分進んでいます。ところが慶應は、福沢諭吉がつくった学校ですから、実学ということを唱え、本来はそういう勉強をしているはずだったんです。福沢諭吉は「簿記」という言葉を日本で最初に翻訳した人です。その『複式簿記』という本の序文に書いてありますが、はじめは、こんな複式簿記なんてくだらん、日本の大福帳で十分だと思っていたんだそうです。ところが研究してみると、これが大変科学的であることが判った。 そこでこれを広めたいということで翻訳したんです。ところがその慶應義塾で、今や複式簿記は衰退し、経済にすり替わり、もう簿記なんかに用はないということで、誰も知らない。一時、住専の問題がありましたが、大蔵省の住専報告書の中にこう書いてあるんです。「この住専問題の元凶は、財務諸表の分析もできないような低劣なる審査能力が原因であった」と。私達はもう一度、日本を考え直さなくちゃいけないんです。

 また国際化時代だといって、外国人と話せるように一生懸命やってきた。ただやり方が間違っていた。文法を 中心に教えるといったことですね。私は冗談じゃあない、とんでもない、言葉は感覚でしゃべるものであって、ただ訳すことではないんだと思うんです。そうした点については、本学でも改めなければというんで、TOEICに取り組んだ。今、TOEICはこの大学が全国の中心なんです。この大学の先生の何人かはTOEICの専門家なんです。本当に一生懸命やっています。SFCではできなかったことですね。それが今や、SFCの先生方もこの大学にやって来まして、一緒になって研究会をやり、TOEICの教育に取り組んでいるんです。トワイライト・コースといいましてね。夕方四時から始まるコースをつくったんです。いま社会人の方達も毎回二百人くらい参加しています。そういう人たちが、TOEICの勉強をして論議をやっていますから、「自然言語」の教育も変わりました。

  それからコンピュータ教育。これも最初はSFCから大学院の学生をTAにして、この大学の学生達をSA(Student Assistant)にして始めたんです。コンピュータを勉強するには、古い知識ではもう教えられないようなことを、どんどん若い人達に頑張ってもらおうと。そのようにしてSAが非常に発達して、SFCの場合は約百人、ここでは二百五十人います。上級生がSAになって下級生に教えるんですが、先生が教えるのではないということが、徹底しました。先生達が自分達も一緒に勉強するんだっていう感じに変わったというのが進歩ですね。

 ここまでは確かにSFCでもやったんですが、会計簿記まではやらなかった。これは間違いだと思いまして、会計簿記を必死でやりました。少し前の日本でしたら、名刺交換で大手の都市銀行なんかだと、「いい銀行にお勤めですね」と信頼される。ところが今は金融関係が信用できなくなってきて、「貴方の銀行は本当に大丈夫ですか」と言われる時代になってしまった。名刺では、もう信用できないんです。そういう時に、どうしたら私達は経済社会の中で、知らない人と付き合うことができるのかということです。これからは名刺のかわりに、お互いの財務諸表を交換することによって、私の会社はこうなんですよ、私という人間はこんな人間ですよと、 データを示し合う。こんな社会になるべきなんです。アメリカではこれが当たり前なんですが、日本ではまだこのような習慣が定着していないため、私を疑うのかなんて怒り出す人までいるんです。でも、こういうことが 普通にできる社会が二十一世紀なんです。そういう意味で会計簿記をカリキュラムに入れたんです。そんな教育を一生懸命やってもらおうと思っています。SFCとはちょっと違うタイプの実学を実現させることになります。

理念なき革命は革命ではない

青山 社会のニーズにマッチした、必要とされる人間養成を目指し、改革を探り続け、明確な答えを大学においても、絶えず思い求めることが大切ですね。

 次に、大学全般、教育全般のお話を伺いたいと思います。大学の問題を語る時に、必ず出てくるのが国際化、情報化、少子化、高齢化という言葉です。そして今、大学改革が叫ばれていますが、こうした言葉に現れたような環境、状況の中で、個々の大学が、それぞれに合った特徴を打ち出していかねばならないと考えます。今の大学全体に感じられていることからお聞かせ下さい。

加藤 まず第一に、改革をする時には、理念がないと駄目です。いろんな大学で改革をやっていますが、大抵は生き残るためにやっているように感じます。私の言う改革は、もし改革がはずれ、間違っていて、その大学がつぶれたとしても仕方がないものだと思っています。つまり改革するということは、成功するだけと思ったら間違いなんです。改革には必ず失敗もあれば犠牲もあります。その犠牲と失敗を、仮に自分が受けたとしても、決して後悔しないだけの理念をもっていなければならないということです。

 私は、いま日本や日本人に欠けているのは、自立心だと思っています。一人一人自立心を持つことが大事なんです。自立する心をもっていないと、理念があっても勉強する意味がないんです。その第一は、経済的自立です。勉強するということは自立ですから、経済的に自立していなければならない。次は、世の中をどういうふうに変えていこうかという、行動面での自立心をもつことです。三番目に私達は、世の中には判らないことが 沢山ありますから、そこに一つの道筋を与えるような自立心を持たねばなりません。この三つの自立心の養成が急務です。本学の創設者の遠藤隆吉先生なんですが、実はこの先生のお父さんが、福沢諭吉が好きだったそうで、「お前は立派な教育者になれ」と諭吉の吉の字をとって、隆吉と名づけたらしい。その遠藤先生は、当時の社会学の第一人者になったんですが、この先生がひじょうに面白いのは、福沢諭吉と同じことを言っているんです。

 第一にまず、平等でなければいけないと。福沢諭吉の『学問のすすめ』にも書いてあるんですが、人間は生まれながらにして平等であることを引用して、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と、こう言ってますね。そのあとの言葉をみなさんあまりご存じないようですが、こう続けているんです。「しかしながら人間の現実は不平等である。その不平等を直すために学問をしなくてはならない」と言ったんです。その言葉を遠藤先生は使いましてね、「人間社会は本来不平等である。不平等であるからこそ人間は勉強をしなければならない」と。同じことですね。これが第一。

 第二が平民ということ。人間は平民でなければいけない。つまり特別な権力をもった人間であってはいけないというのです。それは福沢諭吉が「官僚は嫌いだ。自分は武士ではない」と言ったのと同じなんです。実は、遠藤先生が有名になっちゃった時に、東京教育大学からぜひ教師になって下さいときたんです。その時、遠藤先生は言ったんです。「自分は文部省の役人の風下に立つような男ではない」。これも福沢諭吉と同じですね。諭吉は「官僚など俺は知らん」と拒否しました。そこがよく似ているんですね。もう一つ、遠藤先生は平和主義者です。したがって戦争が始まると同時に、「自分はもう日本には愛想がつきた」と言ってね、日本からはだんだん手を引いていったのです。巣鴨に巣鴨高商というのがあって、それが焼けてしまって、この千葉に移るんですが、その時に遠藤先生も、身を引くように亡くなられました。遠藤先生の理想は"治道家"にあったんだと思います。治道家というのは、政治の治に道と書きます。学問を修める、世の中を治めるという意味での治ですね。学問を修め、道を治めて、世の中の道筋を示す。それが学問を知る者の責任だと考えたんですね。その理念が本学にはあるんです。だからそれを皆で考えていこう、改革は全てそういう方向でしましょう、と言ってきたんです。

 これはどこの私学にもあてはまると思いますよ。だからそうした理念を打ち出すことによって改革を進める。理念なき改革は意味がないと、私は思います。

青山 理念のない改革、ただ学生集めのためだけの改革では駄目だということですね。

加藤 その通りです。

改革の重要なポイントはカリキュラム編成

青山 それぞれの大学・短大にいろいろな改革の方法があるはずなんですが、一方の私たち教育を受ける側から言わせてもらえば、大学に入る時はなにがしかの学問というか、勉強がしたい、そう志して入るんですが、いざ入学してみると、なにやら思っていたイメージと大学の中身が違っていて、がっかりしてしまうというようなこともあります。そういう意味では、本当に教育に熱意をもってやって下さる先生にお会いしていたら、もっと違った充実した大学生活が送れたのではないかと思いますが。

加藤 そうですね。それは、私は慶應に育ちましたけど、慶應で学生時代に話をした先生というのは、自分の研究室の先生しかいなかったですね。ゼミの先生。つまりそれくらい学生と先生の距離があったんですね。

青山 国立大学はそういった点でどうでしょうか。最近は独立行政法人化の動きも出てきていますが。

加藤 国立大学では、その点はなおのこと少ないんじゃないでしょうか。国立大学は国がつくるものですから、どうしても学問の蘊奥を究めて、国家社会の役に立つという側面が強いような気がします。もし仮にそれだけであれば、そんな学問はつまらないと思います。確かに国立大学が、今度、独立行政法人になるという話がありますが、やるんなら理念をもってやってくださいと言いたいですね。そうしないと、独立行政法人が色のない一律独立行政法人になってしまいかねない。そんなことでは意味がないんです。

 大学はそれぞれが個性をもって、それぞれが違うことをやって、違う人間を育てていますというふうな考え方を出していかないと、本来的な改革はないと思います。

青山 私の時代も学区制があって、色々な試みがあった時期でした。個人にしてみれば、非常にかけ離れた才能をもった子と一緒にされるのも不幸ですし、才能のない子と一緒というのも困るし、やっぱりそれぞれに合った、才能を活かしてくれるような教 育の場というものが欲しいなあと思います。

加藤 そうですね。ところで中教審が出した中間答申ですが、新鮮味がないとか、具体化されていないとか、あまり評判がよくないんです。しかし私に言わせると、新鮮味がないってことは、現実にもうそれは常識になっているっていうことで、これはむしろ大変な進歩です。その中教審答申の中で、私が一番注目しているのは入学試験です。非常に不満をもちながら悩んでいる高校生、学生がいますが、それはやっぱり試験の方法が悪いんです。今の共通テストというやり方をしていたら、いい学生が出てくる筈がない。共通テストで判る能力というのは四割、あと六割はEQなんですよね。IQが四割、EQが六割。アメリカではEQをどうやって発見する かが全てで、大学入試の役割になっています。言い過ぎかも知れませんが、IQはどうでもいいんです。そういうふうに考えますと、日本は逆なんです。IQで全てを決めようとするから、共通テストが点数だけになってしまう。何点とったから貴方はこの大学、貴方は何点だからこの大学という割り振りをしているだけなんですね。私に言わせれば、大学っていうのは学生が選ぶところであり、大学が自分の学校にふさわしい学生を発見する場だと。しかしそれができていない。割り振っただけの学生しか集まってこないんです。そんな大学に、本当に勉強しようっていう意欲が出てくる筈がないんです。今度の中教審の答申では、共通テストなんかも点数で見ないで、むしろ資料のような形にして受験する。そしてあとは点数に関係なしに採るんだというふうにした方がいいといってますね。このことは大変結構だと思うんです。

 ただ大学改革は入学試験だけの問題じゃないんですね。重要なのは、カリキュラムの変更なんです。ところが今面倒なのは、カリキュラムを変えるために色々と手続きが必要だということです。これは非常におかしなことですね。学問なんていうのは、毎年変わるくらいでいいんですよ。一度カリキュラムを作ったら、何年間も変わらないというのはおかしい。これでは本当の教育になりません。自由に変えられるようになるのが本当ですよ。例えば語学。ドイツ語、フランス語よりもスペイン語や中国語が欲しいという時に、ドイツ語とフランス語の先生しかいないから、中国語を設けることはできない、ドイツ語の先生をやめさせるわけにもいかないしなんてことじゃだめなんです。大学の現状としては、そういう教育に適応できないんですね。しかし、カリキュラムをどうしたら弾力化できるかということを考えなくちゃいけないですね。

 また文科系、理科系の区別も問題です。私は常々文科系、理科系に差はない、これを区別してはいけないと主張しているんです。しかし「生物のできない学生が医学部に来ているのはおかしい」という人もいる。私は違うと思うんです。中学、高校レベルの生物は、大学に来てからだってできるわけです。何の知識がなくてもいいんですよ。大学に入ってすぐ勉強すればいいことなのに、大学の先生はそれをやりたがらない。そこが問題なんです。つまり大学の先生は今、学生の水準と一緒になって勉強しなければならないのに、自分達は上に立っているから、そんなことできないと言うんですね。

よりボーダーレス化する学問領域への対応 "知らないから教える" 社会常識も大学が指導

青山 学問を研究することには尽力される教授であっても、教育という観点で物事を考えておられる先生が少ないということでしょうか。

加藤 そうなんです。しかし、そうした考え方を変えなければいけない時代がもうきているんです。そんな、生物学を知らないから医学部へ来ちゃいかんなんて、おかしいんです。生物学を知らない学生が来たら、教えればいい。私達の大学では、これをイミグレーション・コースといっています。移民が来たんです。移民が来たんですから、移民のための教育をするのは当たり前なんです。

青山 では、今かなりの大学で、高校の授業の補習をしていると聞きますが、これはもう当然やるべきなんですね。

加藤 当たり前のことです。やらなきゃいけない。高校の補習をなぜ大学でやらなくちゃならないのかというと、高校の勉強が偏差値テストになっているからなんです。だから高校生は共通テストを受ける以外には、絶対勉強しないですよ。そうなっちゃ駄目なんです。共通テストについて、科目数を増やそうという意見がありますが、そんなこと必要ないんです。アメリカでは、英語と数学が基本で、あとは常識テストです。いわゆる社会常識です。この社会常識の試験によって、みんな大学に入る資格が認められるんですが、こんな制度は日本にはありません。そのことが社会常識に欠ける学生をつくりだしている。そんな学生が司法官なんかになりますと、非常識な裁判官が生まれたりするんです。私は常識が欠けた人間が大学へ来るのは、間違っていると思うんです。

青山 大学生の学力低下が取りざたされていますが、入試を突破する学力はあっても、社会常識を含めた総合力が、私達の世代も含めて、今の若い人達に特に不足しているように思います。その辺の補足といいますか、再教育は誰がやるべきなんでしょう。

加藤 それはもう、大学がやるべきなのです。つまり今の時代は、子供のしつけや教育を家庭がやっていないんです。今の家庭はアウトソース(Out Source)の時代なんです。どんどん外へ向かっている。例えば介護保険がそうです。自分の家の介護は他の人にやってもらう、自分は別のところへ行って他の家族の介護をする。家の介護は、その家の奥さんがやるんじゃないんです。その方が本当の介護になるんです。私も年を取ってくるとよく判るんですが、身内の者にやってもらうとわがままになる。これがいや、あれがいやと言い出す。これが他人だったら、文句は言いませんよ。ありがとう、本当にありがとうって、感謝します。それが本当の介護なんです。それを判っていない人が意外に多い。ただもう家庭でやるべきだという発想なんですね。介護保険でそれをやろうとしても、反対がでてくる。そういうことをやって、日本の発展を遅らせてしまう。家庭の主婦が自分の家で料理をしよう、掃除をしよう、介護をしようなんて考えちゃいけないんです。そんなことをするのが、いい奥さんなんて昔の発想です。それは間違いです。どんどん外へ出た方がいいんです。外へ出て、料理したり掃除をしたり、いろんな仕事をする。その報酬で、自分の家の掃除をする人や料理を作る人を雇う。そうすると国民所得が増えるんですよ。

青山 なるほど。それが新しい考え方なんでしょうか。

加藤 そういう発想が、これからの二十一世紀を創造するんです。学生に基礎的学力がないということは間違いなんです。『分数のできない大学生』なんていう本が売れていますが、それを読んだ人が、本当に今の大学生はしょうがないと思っているんです。私はその人に聞きたいんですよ、じゃあ貴方が学生時代に小学生の鶴亀算ができましたか、と。みんなできないんです。できなくて数学嫌いになるのがほとんどでしょう。あの有名な広中平佑さん、あの方でさえ鶴亀算ができなかったんですから。広中さんはそれで悔しくて、頑張ったんです。そういう人もいますけど、いやになってやめちゃう人もたくさんいます。

青山 そういう人の方が多いんじゃないでしょうか。

加藤 鶴亀算というものは、 代数を覚えればすぐできることなんです。それまでは できなくたっていいんです。 分数だって同じです。分数っていうのは分子を分母で割るんだということだけ判っていればいいんです。あとはソフトでみんなできちゃいますから。つまり分数を解けない学生だって、その先生よりもコンピュータができる人がいます。その方が重要なんですよ、これからの社会は。今の先生たちは、今の学生は基礎学力がないと言い、自分だけが最高の教育者だと思っているんです。それは間違っているんです。自分達が教わった教育はすでに過去のものなんだということに気づく、それが先生のまずやるべきことなんです。

大学革命に教師にも理念が

青山 大学改革をなさるにあたって、先生自らがそういう理念をおもちになって、 他の先生方と一緒になってやっていらっしゃるんですね。

加藤 まだまだですね。やっぱり年中言ってないと駄目ですね。

青山 常に言いつづけなが ら、そういう考えを大勢の人に広めていかないと、駄目ですね。

加藤 ええ、でも最近は増えてきていますよ。全国学長会議があるんですが、そこへ行くと、みんな言うことは同じですね。

青山 それでは今後、先生が言われるような、強い理念と個性をもった大学というのが増えてくる。そうなれば嬉しいですね。

加藤 そうですね。ただ国立大学の場合は時間がかかるんじゃないでしょうか。改革の意欲の温度差みたいなものを感じますね。

青山 大学がこれからどんどん競争して、それぞれの大学の個性を磨くと共に、先生方同士もっと競争意識をもって、教育に対する姿勢を見直して頂きたいと、本当に思いますね。

加藤 私は、教育大学も教職課程についても疑問を持っています。教育っていうのは、自分が教育者じゃないって知った時が教育なんです。それを教師だからということで教えてしまうと違う方向へ行ってしまうと思うんです。

青山 そうですね。教育学をやったから、教育大を出たから、即ち教育者だとはいえないんでしょうね。今は教育大を出ても、教員の採用がほとんどないので、大変ですけども。

加藤 それはそれで、違う社会に入って、教育現場とは違うんだということが判れば、日本にとってはプラスじゃないですか。(笑)

青山 私も教師は合わないと思って、別の道に進んだ一人ですが、少しは世間を垣間見てよかったと思います。先生になる方には、やっぱり個性を伸ばしていただくような、いい教育を、大学でも短大でもしてほしいですね。そんな大学が増えることが結果的にこれからの大学・短大が生きていく道でもあるわけですね。

加藤 おっしゃる通りです。「貴方がたは教師になるんだ」と教えられますと、人間はだんだん変になるんです。教師である前に人間ですからね。その人間であるってところでもって、子供達と一緒になれるはずなんですよ。

青山 また、大学がレジャーランド化しているという問題の中で、教師がもう少しきちんとした認識を持つべきだという意見があります。その中で先生をどう評価するかという問題がありますね。 学生たちからどう評価されて いるか、大学側がどう評価するか、いろんな方法があると思います。

そういう話をしていくと、どうしても先生がやっていらっしゃるシラバスや、形式的な評価が先走ってしまいます。もちろんこれもとても大事なことだとは思うんですが、それよりも一人一人の先生が、どれだけ意欲をもって学生に接し、個性のあるいい学生を育てようとしているか、そんな物差しってないのかなあと、思いますが。

加藤 本当ですね。つまりどんな学問をやったって、人間であることがちょっとでも学べればいいんです。シラバスにしても、決して一握りの人たちでできる筈のものではないんです。大学はどんどん新しくなっているんですから、従来の判断ではもはや決められなくなっているんです。それがね、ずい分問題になっています。ある時、計画行政という科目を設けようと考えたんですが、駄目なんです。 行政学と一括りにされてしまったんです。計画行政とは、計画を立てながら、それをどういうふうに実行するかっていうのをやる学問なんです。それが判ってもらえなかった。従来の考え方だけで、新しい学問を評価されたら困ります。私も公共選択論をやっていますが、公共選択論というと公共的なものという考え方になり、公共経済学の範疇に入れられてしまう。関係なくはないと思いますが、根本的には全く違うんです。その違いが重要なんです。世界ではそのことが判っていますから、公共選択論で、私達が柱にしているアメリカのブキャナンという学者は、ちゃんとノーベル賞をもらっています。でも今の日本の学会では、公共選択っていうのをまだ一つの科目として認めてない。そういう古さがあるんです。

求められる生涯学習時への対応

教育内容の革命がこれからの短大を生かす

青山 短大についてもお話を伺いたいと思います。千葉商科大学でも短大をおもちですが、短大はこれからどうなるのでしょうか。

加藤 本学の短大は、夜間なんです(ビジネス・コミュニケーション学科)。短大はもう、希望者が人数的に減ってきていますから、学生を集めることが非常に難しくなってきました。これからはどうやって社会人を集めるか がポイントでしょうね。社会人を集めることによって、地域のためにいろんな公開講座をやってみる。そうすると人々に喜ばれるコミュニティ・カレッジに必ず変わる。アメリカはコミュニティ・カレッジに変わったことによって、短大が生き残れたんです。私はそういう意味から見まして、日本の短大もその方向でやれば生き残れる条件があると思っています。

 では、それをやるためには何をすればいいのかというと、実学です。それから今の社会に適合する学問を、専門的に早くからやる。これが二番目。三番目には、短大を一年やって、大学の三~四年に入れるようにする。そうすれば短大の授業料が半額で済む。半額で勉強して、三~四年に入るわけですから、普通大学四年生をやった時より、授業料が四分の一助かるということですね。そういうふうに考えますと、短大っていうのは教養課程として、非常に重要な役割を果たしている。私共の学校で言えば、やがて短大というのは 将来的に商大の四年制の教養課程を引き受けるものになっていくと思っているんです。今、一、二年でやる専門的なものを入れたものに短大が入ってきた。そうすると、決して短大は困ることないんです。やれるんですね。しかも本学の場合は夜間ということで、昼間も夜間もできるということです。ものすごいプラスです。今、私共の大学では、昼夜間が単位互換になっているんです。 従って昼でも夜でもどっちを取ってもかまわない。そうしますとね、昼間スポーツや体育会で忙しい人は夜間で単位をとる。それから夜勤で働いている人は昼間取るというふうになりますね。昼夜間大学と同じことになっているんです。ただ、現時点では国に認められていません。この方式では駄目なんです。私はいずれ認められるものと願っています。

 さらにこれからは、大学院に行くのにも四年制大学を出る必要がなくなり、自由になると思います。本学の大学院のドクター・コースは、マスター・コースを出なくても入れるんです。ドクター論文を書くっていう資格があればいいんです。ものすごく変わってきますね。その中で短大は、工夫によっては面白い存在になってくるのではないでしょうか。

青山 そういうお話しを伺っていると、短大もまだ捨てたものではないと思えます。名前を変えたり、学科名を変えたりといろいろな方法を模索している短大もありますが、短大ならではの新しい生き残りの道を、これからも考えて頂きたいと思います。いずれにしても、短大、大学、大学院と本人たちが希望する道によって、いろんな選択や進み方ができるようになってきたということは、とても明るい展望ですね。

加藤 そう。それと同時に、大学へいつ入っても、いつやめても、常に大学の学生なんだという考え方があります。単位の貯蓄簿です。

青山 単位の貯蓄ですか。 何年か後まで、その単位が 残るんですか。

加藤 そうです。いつ戻ってきてもいいというふうにしてあげるんですね。これを最初「単位貯蓄簿」と言ったら、「貯蓄」じゃちょっとさびしいから、「単位銀行制」にしたらという。そうしているところに銀行が潰れたりしたんで、これじゃまずいということで、文部省では「単位累積制」と名づけたんですね。(笑)

青山 累積ですか。これはいろんな立場の人に活用される利用価値がありますね。

加藤 この制度は、私はどこの大学でもやるべきだと思うんです。そうしてどんどん単位を取れる時に取り、大学に行きたい時にまた行く。例えば定年後に博士号を取り、お墓入りする。これが本当の博(墓)士号です。(笑)

青山 本当に魅力あふれる大学を創ることが、学生達のやりがい、自分のやりたいことは何かを見つめながら学ぶという、いい形での大学生活につながるんですね。

加藤 そうなんです。よく大学、私学の生き残り作戦なんていう言い方をしますが、私は、それは古いって言うんです。生き残り作戦ではなく、いかに死ぬかという作戦なんです。これが必要なんです。江戸時代には、藩校という学校、塾が千二百あったんです。それが今、国、公、私立合わせて半分の六百になっています。その六百のうち、国公立が大体百校、残りが私立でしょ。それが両方とも半分くらいづつにならないと、いい教育にならないんです。どうしたらいいのかといえば、大学同士が合併することを考える時代がきた、ということなんです。それを考えずに大学改革をやっても駄目です。こういうこと言っていいのかどうかわかりませんが、私は大学の合併を勧めています。

青山 でもそれは、皆さん思っていても、なかなか言えないことなのではないでしょうか。合併する方もされる方もいろいろあるんじゃないですか。

加藤 そのためには、まず学生が不安にならないように、セフティ・ボックスを早く作ってほしいんです。 どういうことかというと、どこの大学で単位をとっても、これを全て正課単位として認めるというものです。千葉はもうやっているんです。放送大学も含めて、県内のどこの大学でも単位互換ができます。

 それから次にやらなくてはいけないのは、学費に関することです。私学は入学金や授業料が高いんです。だからどの私学でもいいから、一度入学してお金を払ったら、それでおしまいにする。あとはどこの大学へ変わっても、取りませんというシステムをつくればいい。そうすると学生は、ドイツの 学生と同じように、自分の好きな講座を、好きな時に、好きな大学でとればいい。そうすると、大学なんていうのは、どこの大学を出るかではなくて、どの講義を聴いたかが重要になってくるんです。こういうふうな大学改革が必要で、そうなってほしいと思いますね。

個性を伸ばすのが教育 

国は大学の裁量に任せる

青山 本当にそうですね。ここで、これからの大学・短大がどういう方向で歩むべきかについてのご提言を頂きたいと思います。

加藤 簡単に言って、大学も短大も個性を伸ばすことをまず考えてほしいと思います。学生の個性を伸ばすことが教育なんですから、そのためには個性のある大学にならねばなりません。個性のある大学・短大になるには、大学改革というけれど、みんなが同じことをやっていては駄目なんです。

センター試験にしても、資格試験になるのならいいんですが、現状はそうではない。今のままでは、本学は参加しません。私は、国は個々の大学がやろうとしていることから手を引くべきだと思うんです。個々の大学の裁量にまかせていただきたい。

青山 学生は授業料を払って学問し、充実した大学生活を送り、実りあるものにしたいと考えますね。そのために、加藤先生の大学はもちろん、多くの大学がそれぞれの個性を発揮して、変わってほしい。学生が安心して、いい大学生活が送れるようになってほしいと 思います。本当に教育の問題は奥が深いですね。いろんな考え方の方がいらっしゃって・・・。

加藤 本当にそうです。私達はずっと教育の自由化を主張してきました。臨時教育審議会に私が呼ばれた時に、自由化について話したんですよ。学校の自由化のためには、学校内の改革が必要だと。その時、あなたのその考え方は教育の体系をめちゃめちゃにしてしまうと、ものすごく反対されました。しかし「学区制は自由化、セメスター化します」「大学は何年いても自由です」といったように、今は違ってきていると感じています。今までなんだったんだというような気もしますが、大学がいい方向に向かっていけばこそ、教育改革も実りあるものになっていくと思います。そのために、まだまだ私はやっていくつもりです。

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