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第4回 いったい何を学ばせているのか?
2007/10/25
「町は教科書だ」というキャッチフレーズのもと、学生たちが(地域の)町へ出かけて、そこで問題だと感じることをテーマ設定して課題探求する、いろいろ調べて最後にはまとめて発表、ディスカッションをする、そんな学習が大学でなされている。良い取り組みは、特色GP(特色ある大学教育支援プログラム、Good Practice)にも採択された。
私はこうした取り組みがもっと増えなければならない、そう考える者の一人である。前号で議論した汎用的技能を育てることにも資する。日本はこうしたアクティブ・ラーニングをあまりにも軽視して戦後を歩んできた。そのつけが今まわっている。ここを充実させないと日本の未来が危うい、そう感じる。
他方で、学生は町へ出てある課題探求をして、その結果いったい何を学んでいるのか、ということがあまりにも自覚されていない取り組みが多いと感じる。「ゴミの収集場所を考えよう」「寺社の歴史を調べよう」「さびれる商店街を活性化させよう」など、学生が設定するテーマは豊かで、一つ一つを見ればそれなりに興味深い。しかし、これはサークルの自主学習ではないのだ。大学が正課の教育プログラムとして単位を出す授業なのだ。教養教育の一つとして位置づけられ、教養は専門外の勉強であるから、何でも勉強になるなどと弁明されてもたまらない。何でも学びになる、というのは逃げ言葉だ。そんなことを言い出したら、アルバイトも社会勉強だと言って勉強になってしまう。もちろん、アルバイトが社会勉強になることを否定しているわけではない。そんなことは正課外の活動として、別のかたちで推奨すればよいのである。少なくとも正課教育として単位を認定する以上は、そこに明確な教育理念、それにもとづく成果が見出されねばならない。細かいところを突きすぎているように聞こえるかもしれないが、ここをもっと真正面から考えないといけないと私はよく思う。
たとえば、「ゴミ」というテーマで課題探求をした学生たちには、そのテーマを抽象化して、そこからどのような分野に接続が可能か考えさせればよい。「経済」や「環境」「都市設計」「食生活・人の暮らし」といった一般的な分野が容易に見いだされてくるだろう。もちろん、この過程には教員の問いかけが介在していなければならない。こうしてこの過程がうまくいくなら、ふだん授業で習っている一般の経済学や自然環境、心理学といった学問が、実は身近な生活と密接につながってくることを、自分の探求学習をもとにして自覚するようになる。ある地域の社会的・文化的特徴、時代性を考慮して、他の都市や外国ではどうなのか、昔はどうだったのか、と思考を発展させられるならなおいい。こうして、地理学や日本史、世界史、文化なども射程に入ってきて、学習がぐんとおもしろくなる。いろいろなことを知りたいという気分になってくる。
しかし、実際にはなかなかこうならない。私は、これは学生の問題というより、そこへ誘えない教員の力量に問題があると思う。もちろん、以前の大学教育であれば、こうした部分は授業外で学生が自主的に学習する部分であって、教員はそのきっかけを作ればいいと考えられていた。しかし、そこまで自主的に勉強する学生がほとんどいないことは一目瞭然だ。京大の学生でも、ここまでやるのはほんの一握りだ。自由を謳う京大の学生でできないならば、他の大学の学生ではまずできない、私の推論の一つのパターンだ。そうであるならば、授業やカリキュラムとして具現化するかたちで考えねばならない。いま大学教育で求められているのはこういう考え方だ。