トップページ > 連載 「大学」の条件 > 最終回 教育論と教育実践を混同することなかれ

前の記事 | 次の記事

溝上慎一(みぞかみ しんいち)京都大学高等教育研究開発推進センター・准教授。京都大学博士(教育学)。 1970年福岡県生まれ。1996年大阪大学大学院人間科学研究科・博士前期課程・修了。同年4月京都大学高等教育教授システム開発センター・助手を経て、2003年より現職。主な著書に、『大学生の学び・入門 大学での勉強は役に立つ!』(有斐閣)、『心理学者、大学教育への挑戦』(ナカニシヤ出版)など多数。 http://smizok.net/

最終回 教育論と教育実践を混同することなかれ

2008/02/27

連載の最後だから、2点実践的な問題を述べて結びとしたい。

 

 知識は必要だと感じたときに学べばいい、と学生はよく言う。レベルの低い話である。これに教員はどれだけ「否」と力強く返せるかが問われている。ある知識が必要だと感じることは、学生が将来の夢やビジョンといったキャリアデザインが描けるようになってきたことと関連している。しかし、せっかく夢やビジョンが描けるようになっても、前提となる膨大な基礎知識を前に倒れていく学生はごまんといる。

 

 この話を典型的に説明するのは数学だ。経済・経営学然り、心理学・社会福祉然り。人の言動や行動を説明するのに、どうしても調査法や統計学の勉強が必要になる。中学以来数学を勉強していない学生、高校の途中で入試科目にないからといって数学の勉強を早々とやめた学生に、行列や微積を前提とする統計学、ないしはそれを前提とする調査法をまともに教えることは難しい。言い方は悪いが、ままごとのような授業とならざるを得ない。こんな話はどの科目、どの学部でも多かれ少なかれ起こっている。興味がわいてからでは、その興味ある学問を学べないことが実際にはよくある。それが現実である。何に役立つかわからなくても、ある程度の基礎知識をしっかり学習させることを、どの教育段階の教員もしっかりと認識する必要がある。

 

 他方で、そうした学習をしてこなかった学生を見て諦観する大学教員に私は賛同しない。以前だったら多くの学生ができていたことが今はできなくなったと言って嘆き、投げやりになる態度も私は嫌いだ。何を教えなければならないか、どういうカリキュラムが必要かという教育論と、目の前の学生をどのように育てるかという教育実践とは別次元の問題だからである。たしかに実践上でも、目の前の学生がどこまでできてどこからはできないかを把握するために教育論が必要である。しかし、教育実践とは、その把握にもとづいて目の前の学生たちが、少しでも上をめざして成長できるように授業をデザインし教えることだ。それが人を育てるということだ。

 

 「なぜそれができない」「なぜわからない」「なぜそれを高校の時にやってこなかった」と言って、最後は親のせいになる有名な責任回帰図式があるが、この図式は教育実践ではまったくナンセンスだ。私たち教員が実践として肝に銘じなければならないのは、目の前の学生の能力や特徴をしっかりと把握して、そうした学生たちを一歩でも二歩でも上へと成長させる授業をおこなうことだけである。この話に有名大学もFランクの大学もない。教員は、学生たちの現状と発展可能性との「ずれ」を徹底的に模索すべきである。

 

 私は、1820歳にもなる、発達的に見てある程度成熟した大学生を前に、一から鍛えて育てられるなどときれい事は言わない。なかには、びっくりするほど成長する学生がいないわけではないが、基本的にそういう学生に出会うことは珍しい。

 

 できる学生は入学時からそれなりのものを見せているし、逆もまた然りである。大学教育改革だと言って、ある特別授業やプロジェクトをやる。こうして私たちの大学は学生を育てています、とアピールする。よく見ると、もともとできる学生がさらにスパートして、全体として結果を出しているに過ぎない、なんてことはよくあった。できる学生に引っ張られてできない学生も頑張ったということもあったが、それも程度の問題であったりする。しかし、だから何だというのだ。実践現場の教育とはそんなものだ。

 

 一人でも多くの学生が、できる、できないにかかわらず、頑張って学習するように教員は授業をおこなう。ただそれだけのことだ。この基本視座を忘れずにいたい。

前の記事 | 次の記事