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矢野 眞和(やの まさかず)工学博士。専門は高等教育政策、社会工学、教育経済学。著書に『大学改革の海図』(玉川大学出版部)など多数。

第3回 「精神と制度論」から「政策論」へ

2008/06/01

 なぜ、これほどまでに長く教育改革が続いているのか。不思議に思っていいはずだが、誰もそんな疑念をもたず、改革の旅は終わりそうにない。それが、教育という営みのサガなのかもしれない。


 教育は人間成長の物語。人は誰も良く育たなければならないと観念されている。それが、目には見えないけれども岩のように堅い教育システムの規範だ。この世界に足を踏み入れると、誰もが、よりよい成長の理想を模索し、未熟な現実を嘆く。良くなっていなければ、良くしなければならない、改革しなければならないと考える。教育は改革とともに棲んでいる。だから、教育の語りは、いつも改革の語りになる。

 今の教育は昔よりも悪くなっているかのような話が氾濫している。子どもや若者の規範に緩みがでている。生きる意欲が衰弱し、学力が低下しているという。教育問題の深刻さが煽られ、悪くした犯人探しがはじまる。親が悪い、教師が悪い、教育委員会が悪い、文部科学省が悪い、世間の大人が悪い。そして、犯人を戒めるためには、法による規制や緩和が必要だという結論になる。ところが、新しく制定された一片の法によって、人が良くなるわけではない。だから、話は元の犯人探しに戻る。

 長く続く教育改革は、「精神論」と「制度論」の終わりのない循環関係にある。愛国心をめぐる議論を批判して、小沢一郎氏は次のように述べている。「『精神論』を振りかざす前に政治家がなすべきことは、現行の『制度』のどこに問題があり、それをどう改革していくかを具体的に考えることにある。それこそ政治がやることであり、そのための努力もせずに国民に愛国心を要求するのは筋違いもはなはだしい」(『小沢主義』集英社)。わが国の教育論議は、しばしば素人の「精神論」が幅を利かせる。精神論の批判としての制度論は的確だ。実際のところ、精神論と制度論の教育論議が、数々の法制度改革を産み落としてきた。

 しかし、制度論であればよいわけではない。もちろん、法制度の変更が必要な場合もあるが、それだけでは大切なものが欠ける。「改革」という言葉は美しく響くようで、それを批判すれば、悪しき抵抗勢力というレッテルが張られる。改革という殺し文句が、欠けている大切なものを背後に押しやっている。口触りのいい「改革」という言葉を禁欲して、それよりも「政策」という言葉を前面に押し出す必要がある。私は、改革と政策を次のように区別している。法制度を変更するのが改革。資源配分を変更するのが政策。「法」と「資源」は分けて考えるのがよい。法制度の変更を推進してきた今までの改革に欠けているのは、「資源配分の変更」という視点に立った「政策論」だ。

 教育システムの規範は不易の理念だが、その理念の実現可能性を規定している人、モノ、金、時間といった資源の配分を考える必要がある。これらの資源配分をどのように変更するのが望ましいか。それを考えるのが政策である。小沢一郎氏の言葉を拝借すれば、「『法制度の改革』を振りかざす前に政治家がなすべきことは、現行の『資源配分』のどこに問題があり、それをどう『政策転換』していくかを具体的に考えることにある」。

 資源配分を変更すれば、自動的に教育が良くなるわけではない。しかし、現実の資源配分がどのようになっているか。どの資源のどこに問題があるか。資源が教育に、そして教育が社会に、どのような影響を与えているか。インプットとアウトプットの関係を理解する実証的な分析が不可欠だ。それが分からなければ、教育を良くする方向性、つまり、政策を発見することはできない。この関係性を明らかにした証拠をもたぬままに、精神論と制度論をかざすのは、無力であるばかりでなく、有害だ。

 前回に述べた「税金の理解」と今回の「政策論」。この二つを議論の前提にして、次世代を育成する大学が良くなる方向性を探りたい。それが、「高校生のための大学政策」というタイトルをつけた理由である。

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