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第5回 “全入時代”が隠す「機会の不平等」
2008/09/01
学力があるにもかかわらず、そして、大学に行きたいと思っているにもかかわらず、進学しない高校生がいる。なぜか。とても重要な問いだと私は考えているが、世間の関心事にはなっていないようだ。
定員割れの大学が半分近くを占める状況だから、大学に行きたいと思えば、誰でも行けるではないか。大学全入の時代だ。進学率を上げるのではなく、むしろ、入学を厳しくして、学力不足の学生を受け入れないようにすべきだ。質の悪い大学は競争によって淘汰されるのが望ましく、数を減らして質を高める施策を優先すべきだ。このように言った方が、世間ウケしそうな風潮にある。
それでもなお、考えてほしいと私は思う。全入時代といわれているのは、大学に願書を出した高校生を基準にした計算概念で、「志願者全入」のことである。「学力」も「学ぶ意欲」もあるにもかかわらず、大学に願書を出さない高校生がいる。なぜか。
早く世に出て働きたいから。いい就職先が見つかったから。専門学校に進学した方が就職に有利だから。大学に進学するメリットがないから。こうした理由が思い浮かぶだろう。私が知りたいのは、思い浮かぶ理由ではなく、願書を出さない本当の理由だ。ところが、説得的な本当の理由が明らかにされていないのだ。いい就職先がみつかり、働きたいと思っているなら、全く異論はない。しかし、大学よりも専門学校が有利だとか、大学進学のメリットがないという理由は、根拠の乏しい説明だ(根拠が乏しいと判断する根拠については、いずれ説明する)。説明になっていない理由を思い浮かべて、「進学しないのは本人の好みの問題」であるかのように語るのは、高校生の将来のためにならない、無責任な物言いだ。
個人の好みの問題ではなく、社会の問題として考えなければならないのは、高い授業料や仕送り金などの「経済的理由」によって、願書を出さない高校生がいるという事実である。50%進学という不思議な状態の背後にあるのは、進学機会の不平等問題だ。
不平等の実態を解明する一つの方法は、大学の志願率が何によって決まっているかを実証的に分析することである。その手はじめに、1970年から2004年の35年間について、「男子」の「現役高校生」の「志願率(願書を出した者の割合)」がどのように推移したかを分析した(詳しくは、矢野・浜中「なぜ、大学に進学しないのか」『教育社会学研究』第79集(2006年)を参照)。
この志願率は、1970年に39・7%だったが、77年には51・3%に上昇。ところが、その後は、やや減少したままに停滞していた。77年の水準を回復し、上昇し始めたのは20年後の98年からであり、2004年に55・3%。男子の大学進学需要が拡大したのは、30年も前に起きた昔の出来事であって、それ以降はほとんど停滞している。
この停滞した進学需要の原因を統計的に探索してみると、「家計所得」と「授業料」の二つの動きに左右されてきたことがわかる。家計所得が伸びれば、志願率は上がり、授業料が上がれば、志願率は下がる。
あわせて、次の二つが大きな要因になっている。一つは、合格率。いま一つは、失業率だ。大学に合格しやすくなれば、志願率が上昇する。そして、失業率が上がると志願率は上昇する。就職不安は、大学進学を促す要因になっている。こうした4変数のプラス効果とマイナス効果が打ち消しあって、志願率が動いてきた。
大学志願率にあわせて、専門学校の進学率についても分析した。それによると、大学の授業料が上がると専門学校の進学率は上昇。そして、大学に合格しやすくなると専門学校への進学は低下。つまり、経済的・学力的に大学に入りやすくなれば、専門学校から大学に流れが変わると予測される。
高校生の進路選択は、経済合理的にかなり説明できる。重要なのは、高騰する授業料が家計の重い負担になり、進学を諦めている層が存在することだ。個人の好みによって「進学しない」のではなく、進学したくても「進学できない」のだ。
「大学全入の時代」という言葉を聞いて、誰でも大学に行けるようになったと錯覚してはいけない。この言葉は用いない方がよい。この言葉の誤りやすい語感が、教育基本法の精神に反する深刻な「機会の不平等問題」を隠ぺいしてしまうからである。