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矢野 眞和(やの まさかず)工学博士。専門は高等教育政策、社会工学、教育経済学。著書に『大学改革の海図』(玉川大学出版部)など多数。

第10回 「個人のため」から「社会のため」に波及する

2009/02/01

 大学時代の学習が、卒業後の学び習慣として持続し、その効果が所得の増加に結びつく。それが5大学の卒業生調査から浮き彫りにされる太い線だ。この分析結果は、かなり面白いし、教育の効果を考えるための基本線になると思う。ところが、所得という変数を用いて教育を語るとプッツンする人が多い。そして、叫ぶ。「教育を所得で評価してはいけない。そのように考える発想が教育を悪くする」。


 教育が人格を陶冶する崇高な営みであることはもちろんだが、ステレオタイプの観念論的反論にはしばしば閉口させられる。わが国だけにみられる奇妙な反応だ。


 教育が所得に及ぼす効果の研究は、諸外国に膨大な蓄積がある。例えば、基礎数学のテストスコアが高いほど若者の失業率が低いという研究成果は、非常に重要だ。ところが、わが国では、この種の研究がほとんどなされていない。研究してはいけない雰囲気だ。


 そのような雰囲気をちゃかして、こんな冗談をいうことがある。「学習(learning)という英語には、所得(earning)が隠されている。学べば学ぶほど所得が増える(more learning is more earning)」。それはさておき、教育の効果が所得だけでないことは明らかだが、所得効果がなければ、学校や教育産業が世界中で膨張するわけはない。所得効果があって、それが他の効果と連動しつつ波及する。だからこそ、教育は「個人のため」だけでなく、「社会のため」になる。


 教育の効果を次のように分けてみよう。一つは、個人/社会の区分。いま一つは、貨幣的効果と非貨幣的効果の区分。この二つを組み合わせると図のように整理できる。所得は、「個人のための貨幣的効果」の指標だ。恵まれた雇用機会や仕事条件もこの領域。「個人の非貨幣的」領域には、健康の改善、レジャーの多様化などが含まれる。さらに重要なのは、社会のための領域にも、貨幣的効果と非貨幣的効果があることだ。個人の所得が増えれば税金の収入は増える。私の計算では、大卒者の生涯所得は、高卒者よりも8200万円多い。その結果、大卒者が支払う税金は、高卒者よりも1600万円多くなる。大卒者が増えれば、税収入が増加する。したがって、大学に税金を投入するのは、合理的な公共投資なのだ。こうした事実を知らないから、私立大学への少ない補助金がムダだという説がまかり通る。私立大学が増えて儲かるのは国家の財政だ。それだけではない。大卒者ほど政府支出に依存する金額が少なくなる(医療や生活保護など)。さらには、社会のための非貨幣的効果もある。「犯罪率の減少」や「社会的凝集性」なども教育の効果だ。


 こうした諸々の効果の集合が、教育のアウトプットの総計だ。その総計を計測するのは簡単ではない。しかし、海外の研究では、こうした分野の研究も少しずつではあるが、確実に増えている。教育の所得効果と聞いてプッツンする前に、それ以外の効果を研究する姿勢が望まれる。


 この四分類において重要なのは、一つ一つの効果を独立させて考えてはいけないということだ。それぞれの効果の相互依存関係に着目しなければならない。


 例えば、犯罪率を考えてみよう。法務省の「矯正統計年報」には、刑務所新受刑者の教育程度(学歴)別の集計が掲載されている。それによれば、高学歴ほど受刑者の比率が小さい。これも教育効果の一つだが、教育を受けることによって、直接的に「犯罪率が減少」するとは断定しがたい(知能犯が増えるかもしれない)。高い所得のおかげで、家計が安定し、健康やレジャーなどに恵まれるという個人生活の安定が、複合的に作用して「犯罪率の減少」を間接的にもたらしている。


 波及効果を考える一つの事例にすぎないが、所得などの個人的経済効果が、健康で豊かな生活を促し、そうすることによって、犯罪率の減少、市民生活の安定、社会的凝集性が保たれる。あわせて、国家の財政も潤う。この潤いが、教育へのさらなる公共投資へと循環すればなお望ましい。


 この循環的波及効果が実証的に解明されれば、所得効果の広がりが見えてくる。「テロとの闘いは、貧困との闘いから」というレトリックも同型だ。波及効果を考えれば、貧困の撲滅が何よりも優先されるべき政策だ。

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