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矢野 眞和(やの まさかず)工学博士。専門は高等教育政策、社会工学、教育経済学。著書に『大学改革の海図』(玉川大学出版部)など多数。

最終回 トランポリン社会の構築

2009/03/01

 二人に一人が進学するようになったから、もはや大学は多すぎる。大学「全入」は、大学「過剰」の証だ。そう思う人が大勢のようだ。しかし、このように考えるのは大間違い。全入は、入口を語る言葉。過剰は、出口を語る言葉である。

 労働市場における大卒の評価が、出口の問題。「大卒の数が増えれば、大卒の価値が小さくなる」と考えるのは、素人の思い込みだ。大卒の価値が大きくなるか、小さくなるかは、大卒の数(供給)と大卒の採用数(需要)の兼ね合いで多様に変わる。高学歴化によって、大卒者数は増え、高卒者数は減少した。しかし、大卒の高卒に対する相対的な所得格差は、減少するどころか、最近はむしろ上昇している。この傾向は、高学歴化が進んでいる諸外国でも共通してみられる現象だ。産業構造の変動によって、知識労働者(大卒労働者)の需要が高まっているからである。

 激変する産業構造に適応できるかどうか。それが労働者の深刻な問題。大卒の有利さは、高卒と比べて「相対的に強い」ところにある。「消極的な強さ」だが、大卒が経済変動と不況に強いのは確かだ。少し大袈裟にいえば、ビジネスマンは、毎日が勉強だ。勉強しなければ、現代の危険社会を生きていけない。だから、学校時代に「学び習慣」を身に付けることが、生涯を生きる資本になる。

 学歴別の労働市場を実証的に分析する限り、大学は決して過剰ではない。全入と過剰を同じにしてはいけない。しかも、連載の過程で指摘したように、全入時代というのも誤りだ。今の大学は、全入でもなければ、過剰でもない。「全入=過剰」論は、二重の誤りを犯している。この危うい言葉に騙されてはいけない。騙されて傷つくのは若者だ。

 何よりも入口の誤りから正さなければならない。つまり、高校生の進学機会の不平等を是正すること、つまり、三段跳びのホップ段階が、大学政策の最優先課題である。東京に住んでいると社会を見る目が曇ってしまう。なるべく地方の高校を訪問するようにしている。訪問して驚くのは、地方の進学高校とそうでない高校の進路指導に大きな落差があることだ。進学高校の合言葉は、「国公立進学率の競争」。この進学率の高低によって、高校および教員の評価が決まる。国公立は、授業料が安く、プレステージも高いから、保護者は大喜びだし、地方議会の教育論議でも県立高校の成果を説明する便利な指標になっている。高校教育の有力な利害関係者に好都合だが、しかしながら、その裏には、口にこそ出されないけれども、成績が悪ければ、私立に行くか、進学をあきらめればよい、という冷めた感覚がある。

 その一方で、非進学高校における教師の進路指導とその努力には頭が下がる。多様な生徒を抱え、苦慮する進路指導に社会問題の現実が顕著に現れる。「進学する学力があり、進学させたいと教師が願うにもかかわらず、高い教育費のために諦める生徒」「保護者から見放されたような生徒」「会社に勤めて働くということの意味を実感できない生徒」「学ぶということを早くからすっかり忘れてしまった生徒」。国公立進学率競争から抜け落ちた生徒に対する社会的支援の貧困が際立つ。

 平均値(50%)には注意しなければいけない。都市では、進学率が60%を越えているのに、地方では30%ほどに留まっている。なぜ、地方の高校生は進学しないのか。進学できないのか。その謎を解明しなければいけない。もちろん、すべての人が大学に進学する必要はない。世に出て働くことはいいことだし、やりたい職業を目指して専門学校に行くのもいい。高校からすぐに進学する必要もないだろう。働いた後に学ぶ方がいい場合も少なくない。

 「いつでも、誰でも、どこでも」学べるのが、生涯学習の理念である。しかし、理念倒れの生涯学習政策が長く続いている。デフレ不況の危険な時代に取り組まなければならないのは、この理念の実践だ。危険を防ぐ安全装置として「セイフティーネット」が語られる。危険な目にあっても傷を深めないようにするネット(網)が必要である。しかし、産業構造の変動に適応するためには、ネットだけでは力に欠ける。安全装置のネットから次の雇用機会に飛び移るバネがなければならない。次に飛び移ることのできるシステムは、いわば「トランポリン」のような装置だ。学ぶ機会を準備することが、次の雇用機会に飛ぶ力を育てる。教育システムは、トランポリン型の社会装置である。このトランポリンを全国的に張り巡らすのが、機会の平等化であり、生涯学習化の政策だ。高速道路を張り巡らすよりも、未来に生きる若者にとって有益だろう。

 このトランポリンは、個人のためだけにあるのではない。社会のために必要なのだ。これからの大学は、トランポリン社会の中枢的役割を果たさなければならない。そのトランポリンの使用料が、500万円もするようでは、利用者が限られる。消費税1%分の2・2兆円を追加投資すれば、あるいは、今話題の定額給付金を投入すれば、大学の授業料をほぼ無償にできる。無償ならば、社会人が大学および大学院に還流することも容易だ。いつでも還流できるなら、あわてて高卒から進学する必要もなくなるだろう。保護者が塾などにかけている費用の総額も3兆円ほどに達する。塾と大学に5兆円を使うよりも、皆が消費税で分かち合って、助けあうシステムを作る方が、社会全体からみて効率的だ。家計の5兆円が、他の消費に回れば、内需の刺激にもなる。

 社会のためになる教育には、助けあいのマネーである税金を投入するのがふさわしく、法制度の変更よりも、資源の配分を変更する政策が大事だ。この連載で言いたかったことはこの一点につきるが、急いで付け加えておきたいことが一つある。学びを忘れた学生のために、税金をこころよく負担する者はいない。入口の基礎学力と出口の卒業学力を担保しなければならない。そうして初めて、機会(入口)→教育→就職(出口)の三段跳びのトランポリン政策が完成する。勉強をしなくても、お金があれば誰でも進学できる「偽りの全入」を改め、お金がなくても、基礎学力と学ぶ意欲があれば誰でも進学できる「正統化された全入」に転換しなければならない。それが、学び習慣の効果を社会に還元してくれる若者が育つ大学政策だと私は思う。

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