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「高大接続」という課題②

2009/06/01

 高校と大学の関係を論議する際に使われる用語として、「高大連携」と「高大接続」という二つの用語が用いられている。二つの用語は、似ているが概念的には大きく異なる。グーグルで検索をしてみると、前者が10万件のヒットがあるのに比べ、後者は1万4700件のヒットであり、前者の方が多く用いられ普及している。用語の意味を広辞苑で調べると、「連携」は「互いに連絡を取り合って物事を行うこと」をいい、「接続」は「つなぐこと」となっている。

 前者を使うと、高校と大学の関係はあたかも連続的であり容易に関係がつくれるような印象を与える。大学の授業を高校生に受講させると、大学の授業についての理解が深まり、学習意欲が高まるという前提に立って、高校生を大学の授業に送り出したり、大学の教員を高校に招いて授業をしてもらったりするという「連携」を発想する。

 しかし、本当に高校23年生が大学の授業に出てきて、違和感なくついていくことができるのが一般的な状況であろうか。読売新聞の「教育ルネサンス」が「飛び入学」のその後を取材し、新たな広がりをみせず、量的には足踏み状態にあるという記事を載せていたが、大学の授業を聴講して、学習意欲が高まっていったり、学習目的が明確化したりするような優秀な生徒はいるかもしれないが、多数派なのであろうか。近年の大学で広がりをみせている初年次教育や学習支援は、かなり多くの大学入学者が、高校から円滑に移行することができないリスクが高いが故に、重視されていることを忘れてはならない。

 後者の「接続」はもともと“切れている”もの同士を “つなぐ”という発想である。大学入試センターの荒井克弘氏は、高校と大学は接続していないと断言している。地方分権的な教育行政の体制の下で、高校教育は市民の完成教育となっており、大学教育が大衆化しても、高校教育の地域性(多様性)が強く、多様化が進む大学とつながった関係など成立していないということを理由に挙げている。筆者にはこちらの見解の方が妥当だと感じる。

 高大連携と高大接続といえば、これまでは入試の問題と考えられてきた。しかし、高校教育自身が多様化し、高校入試が“適格者主義”を断念し、ユニバーサル・アクセスになっており、高校教育の内容が極めて多様化し、あらゆる高校が共通して学んでいるという教科内容やレベルの共通性が維持できなくなってきている。これまでの中教審の答申では“正しい”  あるいは“改善”と扱われてきた“入試の多様化”が、もはや抜本的な解決策にならないことは明らかである。

 学力の多様化が学習意欲や学習習慣から生じているだけでなく、教育内容そのものに起因していることを大学関係者が十分認識していたとは思えない。大学入試センターの研究開発部の調べによれば、全国の高校での地歴の履修パターンは、最も多い「世界史B+日本史B」でも20・8%にすぎず、主要なパターンだけでも14種類におよんでいる。理科も同様で、最多の「化学Ⅰ+生物Ⅰ」で18・2%、主要なパターンで11種類にもおよぶ。

 学習内容の多様化を、これまでは入学者選抜方法の多様化によって“改善”しようとしてきた。仮想敵は「過度の受験競争」であり、その緩和が“改善”になると考えられ、AOや推薦といった入学者選抜の多様化が問題解決への道という前提に立ってきた。

 しかし、ここまで多様化した履修パターンに対応しつつ、学力を確認する入試は個別大学の努力に期待するだけではもはや不可能である。

 今回の答申によって、高大接続は“入試問題”から “教育問題”に転換したという声がある。入試の圧力によって高校生を勉強させるという“入試”発想ではなく、高校教育で何を身につけさせるのかという“教育”の発想で、高校教育を機能させる組織的な取り組みが求められている。

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