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吉川徹(きっかわ とおる)

大阪大学准教授。専門は計量社会学。著書に『学歴分断社会』(筑摩書房)、『学歴と格差・不平等』(東大出版会)など

最終回 大卒学歴至上主義と不平等の表裏

2011/02/01

 私には小学生の子どもが二人いる。先のことはわからないが、二人とも大学に行ってほしいと願っている。大学を出ている私は、子どもには自分と同等以上の条件で社会生活のスタートを切らせたいと考えてしまうのだ。一般に大卒の親は、非大卒の親よりも切実にわが子の大学進学を希望しがちである。
 しかし社会全体を大きな視野で見るとき、このように親世代の上位半数を占める大卒層の教育熱が高いことは、上層固定化を招き、子どもの世代の社会を不平等にする要因となる。二人の子どものどちらかは大学に進学させない(できない)というのが理想の平等社会の「期待値」だろう。
 けれども親が子どもの高学歴を願うことは、「善」とされることこそあれ「悪」だとは断定しにくい。だから、もしあり得るとすれば、大卒層の子どもでも厳しい入学選抜によって大学に進めないという「狭き門」の状況であろう。ところが現実は正反対で、大学進学率50%強の段階で「希望者全入時代」が言われている。
 以上を考えれば、半数弱の家庭の子どもが大学に進学しないという学歴比率からは逃れがたい。そして現状では、大卒家庭の子どもが「進学カード」を、非大卒家庭の子どもが「非進学カード」を選びがちで、平等で円満な学歴の割り振りは実現していない。
 この解決の難しい問題について、今なすべきことは奨学金制度の拡充などにより経済的な進学障壁を完全に取り払い、大学進学機会をもう少し平等化することである。しかしそれが実現しても、理想の平等社会にまでは至らないだろう。なぜならば、大卒の人生を望むか、非大卒の人生を望むかという、学歴観の違いが残るからである。
 学歴観の違いとは何か。次の実例をもとに考えてみよう。私は、就職先がなかなか決まらない指導学生に大学院進学を勧めることがよくある。だがこの「高学歴のスゝメ」に乗る学生は少ない。学部卒で社会人になるほうが、5年後に博士号を得ることよりも望ましい、という学歴観をかれらが持っているからである。わざわざ学費と年数を「投資」するよりも、大卒学歴で今すぐ社会に出たいという気持ちは、容易に理解できるだろう。
 これと全く同じように、高校卒業時に、高い学歴(大学進学)を選好せずに、早く社会に出たいと望む若者たちもいるのである。そうした脱大卒の学歴観は、父母が非大卒である家庭に多く見られがちで、それが学歴の割り振りの偏りを生んでいるのだ。
 今求められているのは、大学進学しない人生を「低い」と決め付けてしまうことなく、逆に「それも軽快で望ましい」とみるような大卒学歴至上主義の学歴観の相対化だと私は思う。そのためには、高卒就職という人生に対して、社会の側からもっと豊かな魅力を付加して、大卒・非大卒双方の人生のメリットが実際に拮抗するようにしなければならない。実現は容易ではないが、私のような大卒層の親が、二人の子のうちのどちらかは大学に行かない人生を歩んでもよいと思えるようになることが理想なのだろう。
 大卒層だけが競争の「勝ち組」を名乗り、あらゆる利得を奪ってしまう学歴競争社会は終わり、次の学歴共生社会が幕を開けつつあるのだ。

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