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新連載 第1回 日常化した大学改革

2011/04/11

 戦後の学校制度改革で、戦前の各種高等教育機関が改組され、新制大学なるものが生まれた。その後、私学の拡大といった量的な変化はあったものの、その基本的な性格は、1960年代後半、「大学紛争」で東京大学が入試をできない年があったほどの混乱があっても、変わることはなかった。
 ところが、元号が昭和から平成に変わって3年目に当たる1991年に、大学設置基準の大綱化を一にする多岐にわたる大学改革が断行された。当時、それは、戦後改革に匹敵するものと唱えられたのである。
 しかし、改革はそこで終息することはなかった。先の改革を推し進めた大学審議会は1993年以降2000年までの毎年、合計17件の答申を出している。そして、行政改革の結果として大学関連政策の審議の場となった中央教育審議会も、2001年以降毎年のように大学改革に関係する答申を行ってきており、その総数は20数件に上っている。
 他方、大学では、まず、一般教育という言葉が設置基準から消えて、教養部が廃止され、変わって国際、情報、環境といった名称を冠した、いわゆる学際学部が生まれた。すでに日本社会はバブル経済の崩壊期に突入していたが、大学は第二次ベビーブーム世代の大量進学時期を迎え、地理的に不便などの悪条件があっても学生は集まり、拡大を続けた。
 入試面では、一芸入試、AO入試など多様な選抜方式が取られ、旧来からのペーパー試験が一般入試と呼ばれるようになった。国公立大対象の共通一次試験は、私立大にも利用される大学入試センター試験となった。教育課程の改革のシンボルとしてシラバスが普及し、成績評価では、GPAシステムの導入が進んだ。大学は、緩められた規制の下で自らを律し、質の実現を図るものとされた。1998年の大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」のサブタイトルは「競争的環境の中で個性輝く大学」であった。
 しかし、バブル崩壊後の経済の長期低迷、司法制度改革に象徴される社会制度の変化、そして18歳人口の急減は、大学に自律的な努力による個性化の余裕を与えることがなかった。
 2003年には、大学院は研究者養成ばかりの場ではないとされ、専門職大学院が制度化された。特に、法科大学院は、裁判員制度導入と並ぶ、司法制度改革の柱とされるものである。そして、時期を同じくして導入された認証評価制度によって、大学は7年を周期に、第三者機関の評価を受けることとなった。
 また、翌年には国立大学が一斉に法人化され、公立大学の法人化がそれに続いた。また、私立大学には、理事会の機能強化が課された。さらには、今年度からは大学情報の公開が義務化された。
 こうした制度的な枠組の変化のもとで、教育課程では、1セメスターの授業は15回実施といった形式的なものから、キャリア教育の必須化といった内容的なものに至る、あらゆる改革が課題とされてきている。そして、競争的に配分された資金が、そうした改革に拍車をかけている。
 こうして、大学では「改革疲れ」を口にするほどに、改革が日常化されるに至った。しかし、それで大学は改善され、その使命を全うできる姿になったのか。次回以降では、個別の事象に即してそれらを検証し、真の改革への途を探ってみたい。

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