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第9回 大学で何を学ぶか(3)成長

2016/02/09

連載 社会の地殻変動と大学

第9回 大学で何を学ぶか(3)成長

金子 元久

 前回は、大学での学習を通じて、「知識・技能の獲得」だけではなく、「汎用能力の形成」、そして「自己認識の深化」をすることが重要なこと、そしてその三つの側面が互いに補完しつつ、循環する関係が必要なことを述べた。
 そうしたダイナミックな過程を通じ、広い意味での「成長」を遂げることが大学での学習の究極の目的であろう。
 では、大学生の成長とは何を意味するのか、それがいま、なぜ重要なのか。
 青年期の人間の人格的な成長は、必ずしも順調な連続的なものではない。図式的には、大きく三つの局面に分けて考えることができる。
 第一は、家族や学校教育の中で、人間としての基本的な知識や行動の仕方を身につけ
る時期だ。いわば基礎的な成長の時期ともいえる。
 しかし、言い換えればそれは個人をとりまく身近な環境の中で、知識や価値観を個人がそのまま受け入れたものに過ぎない。
 その次の第二の局面では、より広い環境でさまざまな経験をし、そして新しい知識に直面する。そしてそれが、それまでの自分の知識や考え方に疑いを持つことになる。
 この過程で、若者はそれまでの考え方や自信を失うことになるから、いわば脆弱な状態に陥ることになる。どの社会もその時期の青年を保護するメカニズムを作ってきた。社会心理学者のエリクソンはそれを「モラトリアム」と呼んでいる。この言葉は日本では、成長できない人を指して用いているが、重要なのは、それを成長の過程の一つとして捉えることだ。
 第三の局面は、いったん脆弱になった自己認識を、知識や経験を通じて、新しく自分自身のものとして再編し、作り直していくことだ。
 この過程を通じて、若者は社会の中で判断し、行動する基盤を形成する。
 大学の役割は、こうした意味において、非連続的な成長の場となることにある。本来の「リベラル・アーツ」の教育が意図したものは、ここにあった。
 それは日本の大学ではあまり意識されることはなかった。戦前からの、大学生というからには大人でなければならない、という建前が現実から目をそらさせていたことも一つの理由だろう。
 しかし現代、日本の若者はこうした意味での成長をますます必要としている。職業が多様化し、流動化しているために、若者は大学入学までに自分の将来のイメージを抱くことは難しい。また、かつての入試体制が弛緩して、高校生の学習時間は大きく減少している。知識の修得の習慣自体も十分に形成されているわけではない。
 それでは、そうした意味での成長が起こるためには、大学はどのような教育の場となり、またその中で学生は何を学ぶべきなのか。
 私はその基本は、学生の自律的・主体的な学習にあると考える。現代の日本の学生は、授業に出席している時間自体は必ずしも少なくはないが、授業に関連して自分で学習する時間は、例えばアメリカの学生と比べても、3分の1程度と極めて少ないのが実情だ。
 それは、一つには大学の授業自体が、学生の自律的・主体的な学習を促すような形態となっていないことにもよる。これを解決するには、授業に学生を参加させ、提出物にコメントするといった地道な努力が必要だろう。また、学生側も、授業を活用して新しい知識の獲得に挑戦していくことが、結局は自分を成長させることにつながる。
 同時に、地域や職業の実際にふれること、外国留学で異なる文化や社会にふれることも重要だ。アルバイトやサークルの経験がこうした意味で評価されることも事実だ。しかしそれには、日本の大学が本来の教育機能を十分に発揮しなかったために生じた、過大評価の側面もある。
 深い学習と、幅広い経験、それに主体的に取り組むことが学生の成長を促す。それを導く有効な場となることが現代の大学の最大の課題だ。 

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