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第6回 「知識の暗記・再生」という虚構

2016/10/14

連載 高大接続の理想と現実

第6回 「知識の暗記・再生」という虚構

中村 高康

 これまでは、高大接続の議論で脇に追いやられがちな層の人たちの進路選択問題を中心に取り上げてきたが、今回からはいよいよ、いま話題の「高大接続システム改革」、とりわけ入学者選抜制度改革に関わる部分について論じてみたい。
 現在の改革案は、2014年12月の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」において現実的な方針として打ち出された。大学入試に関する研究に携わった経験者として大いに関心があったが、一読してその内容には当惑せざるを得なかった。
 私が最も受け止めにくい気持ちをもって読んだのが「知識の暗記・再生」というフレーズである。答申は次のように指摘する。
 「現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがち」であり、「真の『学力』が十分に育成・評価されていない」(3頁)と。だから、入学者選抜方法を改革しなければならず、個別大学の選抜方法も多様化すべきだし、センター試験に変わる新しいテストも導入し、知識の暗記・再生を問うものにならないように記述式も取り入れるのだ、というわけである。
 これを受けて具体的な制度設計を担う「高大接続システム改革会議」も、今年3月に最終報告を出した。そこでは中教審答申に見られた改革への意気込みはかなり抑えられ、現実的な方向での提案に落ち着いてきた。しかし、依然として「現状の大学入学者選抜では、知識の暗記・再生や暗記した解法パターンの適用の評価に偏りがちである」(4頁)といった記載も見られるように、「知識の暗記・再生」をターゲットとした論理は未だに燻くすぶっている。
 私が違和感を覚えるのは、現行の大学入試は単純な「知識の暗記・再生」にはなってはいないという認識があるためである。本稿第3回「進路多様校からの大学進学」でも紹介したように、入学難易度が高くない多くの大学では、すでに入試多様化は十分過ぎるほど浸透し、進路指導の高校教員でも対応に苦労するほど複雑化している。ここでは、当然ながら推薦入試・AO入試が中心的な選抜方法となっており、「知識の暗記・再生」に偏っているという風情はまるでない。むしろ、少子化と競争の激化で受験生の取り合いになっており、「知識の暗記・再生」を問いたくてもできない大学のほうが多く、できるならばせめて知識だけでもマスターして入学して欲しいという大学もたくさん存在する。
 もっとも、難関大学の入試であれば、昔ながらの受験競争があるため、知識の詰め込み勉強の弊害も聞こえてきそうである。しかし、難関大学の入試では、逆に高学力層の競争になるため、実際には単なる「知識の暗記・再生」では歯が立たないレベルになっている。中教審答申や高大接続システム改革会議最終報告が目指すような、活用や思考力・判断力・表現力までトレーニングしなければならないような、高度な記述式回答や思考回路を求める問題が課されることも少なくない。
 実は、中教審答申自体が、このような実態に気づいている節がある。なぜなら、いま私が述べたように、難関大学とそうではない大学の入学者選抜の問題点を分けて論じている箇所があるからである。それなら「知識の暗記・再生」批判などやめればいいのだが、一度振り上げたこぶしは下ろせなかったのだろうか。結果として、実に中途半端な、一行程度の短文記述式問題が「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の目玉となった。将来的に長文記述式の導入も検討課題となっているが、乗り越えるべき課題が多過ぎてどのように実現可能なのか想像もつかない。「『知識の暗記・再生』に支配された大学入試」という虚構が、とてつもないモンスターを生み出さないことを切に願う。

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