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最終回 教育を弄いじりたがる社会

2017/03/22

連載 高大接続の理想と現実

最終回 教育を弄いじりたがる社会

中村 高康


 これまで9回にわたって「高大接続」に関わる諸側面を取り上げ、議論をしてきた。第1回でも述べた通り、「高大接続」という言葉は、その本来のニュアンスを超えて、さまざまな制度改革を包含するマジックワードのようになっている。この「高大接続」に関わって、実に多くの制度改革が今後なされていく可能性が高い。
 しかし、特に近年は、あまりに多くの改革案を、予算や人員を十分に増やさずに、しかも同時に実施しようとしているように見える。「改革疲れ」という言い方があるが、これは多くの教育関係者にあてはまる言葉なのではないかと思われる。
 考えてみれば、1980年代の「臨時教育審議会」から始まり、2000年代の「教育改革国民会議」、そして最近では「教育再生実行会議」と、この30年余りの間は、大改革がたて続けに議論されてきたというのが実態である。しかし、たびたび大改革を提案し続けなければならないほど問題のある教育制度を、本当に私たちは作ってきたのだろうか。
 私にはとてもそうは思えない。高い学力、活発な部活動や学校行事、道徳教育まで熱心にやっている。そのうえ、極めて高い進学率を達成している教育システムは、国際的に見ても決して卑下するようなものではない。もちろん、個別の問題は山ほどあるのだが、それらのためにシステム全体をひっくり返すような提案が本当に必要なのかどうか。議論は十分に尽くされていないように見える。
 ここまで大改革が提案され続ける背景には、私たちの社会に漠然とした不安が蔓延しており、何かを大胆に変えなければいけないという心理が人々の間に共有されている状況がある。さらに言えば、「現代はこれまでにない時代的転機を迎えており、いますぐ何かをしないと大変なことになる」という時代認識もある。しかし、社会学者の佐藤俊樹氏は、こうした時代認識がいつでもあることを指摘し、自分が生きているいま現在を特別な時代だと定義したがる人間社会の傾向を指して「現代の特権化」と呼んだ。
 いまが特別の時代だと考えるのは何も現代日本人だけではない。「不確実性の時代」などと言えば現代日本のことかと思う人も多いと思うが、実は、アメリカのジャーナリストであるガードナー氏によれば、アメリカでも「不確実性の時代」という言葉がよく使われるそうだ。しかも、これは100年近くも前から頻繁に使われており、またその頻度も半端ではない。この言葉は、『ニューヨーク・タイムズ』では1924年に使用されて以来5270回も登場しているというのである。こうなると、「不確実性の時代」という時代認識があまりあてにならないものに見えてくるだろう。現代を特別な時代だと捉える時代認識は、しばしば根拠なく流行の時代用語で飾り立てるケースが多い。そして、このような時代認識によって突き動かされる教育改革もまた、怪しい特性を持っている可能性が高い。少なくとも、そういうリスクがあるものとして、我々は現状を理解すべきなのである。
 さらに、教育に関して言えば、「教育を変えれば、世代交代の進行と共に社会も改善されるだろう」という、楽観的な教育還元論が支配している。教育を変えても思ったほど世の中が良くならない可能性や、逆に世の中をおかしくしてしまう可能性(それは歴史的に極めて頻繁に起こっている事態なのだが…)についてはなぜかあまり議論がなされない。だから、リスク感覚が麻痺した状態で、教育を弄り回すことになる。
 教育を弄りたがる社会の先に幸福な道が続いている保証はない。そうであれば、大改革よりも、まずは地味でも実効性のあるピースミールの改革をもっと試みて良いのではないだろうか。50年先にも影響しかねない教育の改革には、そのほうが似つかわしい、と私は思う。




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