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第75回 尚美学園大学 副学長 富澤 一誠氏
2018/03/10
エンターテインメントとしての「音楽」を創る
尚美学園大学 副学長 富澤 一誠氏
平成30年4月より、尚美学園大学(埼玉県川越市)の副学長に就任することが決定した音楽評論家の富澤一誠氏。音楽業界出身者が大学の副学長に就任することは非常に稀であり、多くの関係者から注目を集めている。
今回は、50年近く音楽評論家として日本の音楽業界の第一線で活躍してきた富澤氏に、副学長就任に対する抱負やこれからの尚美学園大の教育が目指す方向性についてお話をうかがった。
実学と業界の俯瞰的な見方で、出口の見える教育を展開
――副学長就任までの経緯を教えてください。
私は、50年近く実社会で、音楽評論家として活動しています。平成6年に尚美学園のアドバイザリーボードとして就任して以来、これまで尚美ミュージックカレッジ専門学校の客員教授や尚美学園の評議員、理事を歴任してきました。その中で、今般尚美学園大の副学長という大役を担うことになりました。
音楽評論家が「副学長」に就任することは日本全体の教育業界でみても、あまり例のないことですので、実社会で得た知識や経験を次の世代へ継承していく所存です。
また、私は音楽に関する「実学」と音楽業界の「俯瞰的な見方」に関しては、プロフェッショナルであると自負しています。ですから、特に芸術情報学部の音楽エンターテインメントへの視点に対して、具体的な出口の見える実学的な俯瞰図を学生自身が描けるよう、学びの体制を整えていきたいと考えています。
――具体的に「音楽評論家」としての経験や知識を大学教育の中でどのように展開させていこうとお考えですか?
たとえ話になりますが、まず学生たちへ「魚の釣り方を教える」ことが重要だと思います。
学生たちに釣り針とエサ、道具などすべて同じものを与え、みんなで海に行きます。ここまでの状況はみんな同じですから、誰が魚を釣ってもおかしくない。しかし、実際に釣りを始めると、釣れる人はたくさん釣れて、釣れない人はいつまで経っても釣れないという歴然とした差がでてきてしまうのです。
ここで、釣れない人は釣れている人のところへ見に行きますよね。その時に、釣れている人から魚をもらって喜んでいるようでは、一生魚は釣れません。道具は一緒なのですから、エサのつけ方が悪いのか、釣っている場所がいけないのか、自分でちゃんと考え、「なぜ、あの人は釣れて、私は釣れないのか」ということの答えを見つけ出す努力をしなくてはいけません。上手い人は、自分で考えて、自分にはないものを学ぶ能力があるのです。
つまり、道具やエサは学校教育でいうところの「基礎」になります。
一回魚の釣り方を覚えれば、あとはどこへ行っても魚が釣れるようになるのと同じように、音楽ビジネスにおいても「基礎」が肝になります。ですから、基礎は私たちで徹底的に教えていく所存です。基礎がしっかりと身についていれば、マネジメントなどの応用の幅も格段に広がります。
しかし、ただ授業を受けているのは、魚をもらって喜んでいるのと一緒です。そこから自分の足りないものを自分で学ぼうとする意欲を持ち、4年間でどれだけクリエイティブになれるのか、それが「勉強」なのだと考えています。
誰かがやってくれるのではなく、自分が「主体」「発信源」になるという見方を身につけられるような教育を実践していきたいと考えています。それが、学校というところなのではないでしょうか。
実際に仕事でその知識を使うか使わないかは別にして、業界標準となるような基礎知識はできるだけ多く学んで欲しいところです。やはり、知っているのと知らないのとでは、やがて大きな差を生んで、そこが業界で生き残れるかどうかの大きな違いになってくると思います。
加えて、現実を見るということも教えていかなければならないと考えています。例えば、ギタリストになりたいと思っていた学生がギタリストになれなかった場合はどうするのかという、二手三手先まで考えておくということです。一流のアーティストになることだけがエンターテインメントではないということです。
「オールジャパンに捧げる国民的応援歌」を創り上げる人材の育成
――尚美学園大学の特徴はどのようなところにあるとお考えですか?
音楽を芸術としてだけでなくエンターテインメント、ビジネスとしてとらえ、最初に「音楽ビジネス」を学問としたのが尚美学園大なのです。
その点が、まさに私の考えと一致していますし、最大の特徴だと考えています。
ですから、尚美学園大では、実学を学び業界で活躍できる人材を育成するのはもちろん、俯瞰的な目を持ち、音楽ビジネス業界をクリエイトする人材を育成することができるのではないかと期待しています。
――今後の尚美学園大学の教育改革についてどのような構想をお持ちですか?
長年音楽エンターテインメント界で活動してきましたので、その人脈を活かしていく所存です。
具体的には、レコーディング会社の社長などとコネクションをもっていますから、ゲスト講師としての講演を依頼することを構想しています。業界のトップからのナマの話を聞き、“本物”とふれ合うことは、学生にとって、とても良い刺激になると確信していますし、学びの原動力になるはずです。
また、学科間のコラボレーションをより積極的に行っていきたい。例えば、音楽表現学科の学生が音楽を考えアレンジを行い、舞台表現学科の学生が脚本を書き、演出を行って、情報表現学科の学生たちが撮影を行う。そして、音楽応用学科の学生がそれを配信するというようにそれぞれがセルフプロデュースできれば、お互いにメリットや学ぶものが生まれてくるはずです。
そして、それらを私がトータルプロデュースすることで、学生たちへ知見を還元できたらと考えています。
学校の全体像としては、世界的に音楽のエンターテインメントの学校といえばバークリー音楽大学(米国・マサチューセッツ州)が有名ですので、尚美学園大が“日本のバークリー”となるように、常に新しい仕掛けをしていこうと考えています。
加えて、残念ながら衰退しつつある日本のエンターテインメント界を尚美学園大から盛り上げていけるよう、先ほどの外部講師による講演も含め、各方面からのサポーターを積極的に取り込んでいくつもりです。そうすれば、尚美学園大はもちろん音楽エンターテインメント業界全体にも変化が訪れると確信しています。
音楽を含めたエンターテインメントは「オールジャパンに捧げる国民的応援歌」なのです。そうでなくてはこれからのエンターテインメントは盛り上がらない。音楽で人々や社会を鼓舞するわけですから、ミュージシャンとしてその曲が弾ける・歌えるというだけでなく、曲が書ける、アレンジもできる、プロデューサーもできる、アーティストを超えたスキルや能力を兼ね備えた人材が必要になるのです。そのような人材を尚美学園大から輩出していきます。
――高校生に向けてメッセージをお願いします。
音楽に関わる勉強や仕事をしたいと考えている人は多いのではないでしょうか。その道に進む際に、一番重要になるのは、やはり「音楽が好き」という気持ちです。
「バンドを組んで有名になりたい」など具体的な夢を持ち、能動的に動いている人はもちろん、「音楽業界で何かできたらいいな」と考えながらも、進路に悩んでいる人こそ尚美学園大に学びに来てください。
大学の最初の2年間でいろいろな経験を積みながら、目指すものを探せば良いのです。好きなものであれば、頑張るためのモチベーションも高くなり、より具体的な目標を立てることができるはずです。
多様な経験をしていくと得意分野と苦手分野が出てくるでしょう。一見、得意分野へ進んだ方が成功しやすいように思えますが、自分の得意なものというのはなかなかビジネスとしては成り立たないということも少なくありません。なぜかというと、得意なものに対して、人間はそこまで努力をしないからです。ですから、少し苦手意識のあるものの方が、ビジネスとして成功しやすいのです。
実際私も、学生時代は文章や論文を書くのが一番苦手でした。しかし、いまは音楽評論家として活動しています。やはり、努力をすることで、自分の中に眠っていた秘められた能力のようなものが引っ張り出されるのです。
みなさんの中にも、自分では気づかない“宝”がたくさん眠っています。音楽が好きで、音楽業界に興味があるという人は、尚美学園大で一緒に秘められた才能を開花させましょう。
クローズアップ
決断力と行動力でつかんだ音楽評論家としての道
本稿では、富澤氏の学生時代の思い出や音楽業界を目指したきっかけ、音楽評論家として活動するまでの波瀾万丈の人生に迫る。
私が中学生の頃、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」が人気で、修学旅行のバスの中でモノマネをして歌ったら、評判が良くて、「歌手になりたい」と思うようになったのがこの業界を目指したきっかけでした。
高校時代には文化祭で友達とステージに立ったのですが、歌い終わると、トイレットペーパーなどが飛んできて、最初は賞賛の意味で投げ入れられているのだと思っていたのですが、どうやら「帰れ」というブーイングだったようで……(笑)それでも、ずっと歌手になりたいという夢を描いていました。
一方で、当時は東京大学(東京都文京区)へ進学するという目標も持っていました。しかし、「歌手になる」「東大に行く」という二つの目標は両立するのが難しく、常に心の中でこの二つの気持ちがせめぎあっている感じでしたね。
高校3年生の夏休みに担任の先生に相談したところ「お前はいい声をしているけど、音痴じゃないか。歌手になるよりも東大へ行く方が楽だから、歌手になるかどうかは東大に入ってから考えれば良い」と言われ、確かにそうだと思い、東大へ進学しました。しかし、進学は歌手になるための手段でしたので、2カ月で中退して歌手への道を目指し始めました。ところが、歌謡学校で先生の弾く伴奏のリズムに乗れなくて、自分には歌手は向いていないと考えるようになり、そこで歌手になる夢を諦めました。
その後、作詞家を目指した時期もありましたが、やはり才能を見い出すことができませんでした。
そしてその頃、吉田拓郎さんの歌に出会い、フォークソングという新しい音楽のジャンルを知り、感銘を受けました。実際に吉田さんや、たくさんのフォークシンガーとも親睦を深めていく中で、「これが俺たち若者の音楽になるかもしれない」と感じるようになり、音楽イベントを主催したのですが、結局大赤字になってしまい、イベンターも私には不向きでした。
歌手も作詞家もイベンターも向いていないと落胆していた時、雑誌でフォークソングの特集記事を見たのですが、その内容がいまいちピンとこなくて、“これだったら俺の方が良い文章が書ける”と思い、その場で評論を書き、出版社に投稿しました。
その投稿が編集長の目に止まったようで、ある日「うちで評論を書いてみないか」と誘いを受け、そこから私の音楽評論家としての人生が始まりました。
その時代はまだフォークソングの評論を書く人があまりいなかったため、タイミングも良かったのかもしれませんが、自分で行動し、いろいろな経験をしたからこそ分かることが多く、それらすべての経験が音楽評論家として活動する原点になっているのだと感じています。
尚美学園大学 副学長 富澤 一誠氏
平成30年4月より、尚美学園大学(埼玉県川越市)の副学長に就任することが決定した音楽評論家の富澤一誠氏。音楽業界出身者が大学の副学長に就任することは非常に稀であり、多くの関係者から注目を集めている。
今回は、50年近く音楽評論家として日本の音楽業界の第一線で活躍してきた富澤氏に、副学長就任に対する抱負やこれからの尚美学園大の教育が目指す方向性についてお話をうかがった。
実学と業界の俯瞰的な見方で、出口の見える教育を展開
――副学長就任までの経緯を教えてください。
私は、50年近く実社会で、音楽評論家として活動しています。平成6年に尚美学園のアドバイザリーボードとして就任して以来、これまで尚美ミュージックカレッジ専門学校の客員教授や尚美学園の評議員、理事を歴任してきました。その中で、今般尚美学園大の副学長という大役を担うことになりました。
音楽評論家が「副学長」に就任することは日本全体の教育業界でみても、あまり例のないことですので、実社会で得た知識や経験を次の世代へ継承していく所存です。
また、私は音楽に関する「実学」と音楽業界の「俯瞰的な見方」に関しては、プロフェッショナルであると自負しています。ですから、特に芸術情報学部の音楽エンターテインメントへの視点に対して、具体的な出口の見える実学的な俯瞰図を学生自身が描けるよう、学びの体制を整えていきたいと考えています。
――具体的に「音楽評論家」としての経験や知識を大学教育の中でどのように展開させていこうとお考えですか?
たとえ話になりますが、まず学生たちへ「魚の釣り方を教える」ことが重要だと思います。
学生たちに釣り針とエサ、道具などすべて同じものを与え、みんなで海に行きます。ここまでの状況はみんな同じですから、誰が魚を釣ってもおかしくない。しかし、実際に釣りを始めると、釣れる人はたくさん釣れて、釣れない人はいつまで経っても釣れないという歴然とした差がでてきてしまうのです。
ここで、釣れない人は釣れている人のところへ見に行きますよね。その時に、釣れている人から魚をもらって喜んでいるようでは、一生魚は釣れません。道具は一緒なのですから、エサのつけ方が悪いのか、釣っている場所がいけないのか、自分でちゃんと考え、「なぜ、あの人は釣れて、私は釣れないのか」ということの答えを見つけ出す努力をしなくてはいけません。上手い人は、自分で考えて、自分にはないものを学ぶ能力があるのです。
つまり、道具やエサは学校教育でいうところの「基礎」になります。
一回魚の釣り方を覚えれば、あとはどこへ行っても魚が釣れるようになるのと同じように、音楽ビジネスにおいても「基礎」が肝になります。ですから、基礎は私たちで徹底的に教えていく所存です。基礎がしっかりと身についていれば、マネジメントなどの応用の幅も格段に広がります。
しかし、ただ授業を受けているのは、魚をもらって喜んでいるのと一緒です。そこから自分の足りないものを自分で学ぼうとする意欲を持ち、4年間でどれだけクリエイティブになれるのか、それが「勉強」なのだと考えています。
誰かがやってくれるのではなく、自分が「主体」「発信源」になるという見方を身につけられるような教育を実践していきたいと考えています。それが、学校というところなのではないでしょうか。
実際に仕事でその知識を使うか使わないかは別にして、業界標準となるような基礎知識はできるだけ多く学んで欲しいところです。やはり、知っているのと知らないのとでは、やがて大きな差を生んで、そこが業界で生き残れるかどうかの大きな違いになってくると思います。
加えて、現実を見るということも教えていかなければならないと考えています。例えば、ギタリストになりたいと思っていた学生がギタリストになれなかった場合はどうするのかという、二手三手先まで考えておくということです。一流のアーティストになることだけがエンターテインメントではないということです。
「オールジャパンに捧げる国民的応援歌」を創り上げる人材の育成
――尚美学園大学の特徴はどのようなところにあるとお考えですか?
音楽を芸術としてだけでなくエンターテインメント、ビジネスとしてとらえ、最初に「音楽ビジネス」を学問としたのが尚美学園大なのです。
その点が、まさに私の考えと一致していますし、最大の特徴だと考えています。
ですから、尚美学園大では、実学を学び業界で活躍できる人材を育成するのはもちろん、俯瞰的な目を持ち、音楽ビジネス業界をクリエイトする人材を育成することができるのではないかと期待しています。
――今後の尚美学園大学の教育改革についてどのような構想をお持ちですか?
長年音楽エンターテインメント界で活動してきましたので、その人脈を活かしていく所存です。
具体的には、レコーディング会社の社長などとコネクションをもっていますから、ゲスト講師としての講演を依頼することを構想しています。業界のトップからのナマの話を聞き、“本物”とふれ合うことは、学生にとって、とても良い刺激になると確信していますし、学びの原動力になるはずです。
また、学科間のコラボレーションをより積極的に行っていきたい。例えば、音楽表現学科の学生が音楽を考えアレンジを行い、舞台表現学科の学生が脚本を書き、演出を行って、情報表現学科の学生たちが撮影を行う。そして、音楽応用学科の学生がそれを配信するというようにそれぞれがセルフプロデュースできれば、お互いにメリットや学ぶものが生まれてくるはずです。
そして、それらを私がトータルプロデュースすることで、学生たちへ知見を還元できたらと考えています。
学校の全体像としては、世界的に音楽のエンターテインメントの学校といえばバークリー音楽大学(米国・マサチューセッツ州)が有名ですので、尚美学園大が“日本のバークリー”となるように、常に新しい仕掛けをしていこうと考えています。
加えて、残念ながら衰退しつつある日本のエンターテインメント界を尚美学園大から盛り上げていけるよう、先ほどの外部講師による講演も含め、各方面からのサポーターを積極的に取り込んでいくつもりです。そうすれば、尚美学園大はもちろん音楽エンターテインメント業界全体にも変化が訪れると確信しています。
音楽を含めたエンターテインメントは「オールジャパンに捧げる国民的応援歌」なのです。そうでなくてはこれからのエンターテインメントは盛り上がらない。音楽で人々や社会を鼓舞するわけですから、ミュージシャンとしてその曲が弾ける・歌えるというだけでなく、曲が書ける、アレンジもできる、プロデューサーもできる、アーティストを超えたスキルや能力を兼ね備えた人材が必要になるのです。そのような人材を尚美学園大から輩出していきます。
――高校生に向けてメッセージをお願いします。
音楽に関わる勉強や仕事をしたいと考えている人は多いのではないでしょうか。その道に進む際に、一番重要になるのは、やはり「音楽が好き」という気持ちです。
「バンドを組んで有名になりたい」など具体的な夢を持ち、能動的に動いている人はもちろん、「音楽業界で何かできたらいいな」と考えながらも、進路に悩んでいる人こそ尚美学園大に学びに来てください。
大学の最初の2年間でいろいろな経験を積みながら、目指すものを探せば良いのです。好きなものであれば、頑張るためのモチベーションも高くなり、より具体的な目標を立てることができるはずです。
多様な経験をしていくと得意分野と苦手分野が出てくるでしょう。一見、得意分野へ進んだ方が成功しやすいように思えますが、自分の得意なものというのはなかなかビジネスとしては成り立たないということも少なくありません。なぜかというと、得意なものに対して、人間はそこまで努力をしないからです。ですから、少し苦手意識のあるものの方が、ビジネスとして成功しやすいのです。
実際私も、学生時代は文章や論文を書くのが一番苦手でした。しかし、いまは音楽評論家として活動しています。やはり、努力をすることで、自分の中に眠っていた秘められた能力のようなものが引っ張り出されるのです。
みなさんの中にも、自分では気づかない“宝”がたくさん眠っています。音楽が好きで、音楽業界に興味があるという人は、尚美学園大で一緒に秘められた才能を開花させましょう。
クローズアップ
決断力と行動力でつかんだ音楽評論家としての道
本稿では、富澤氏の学生時代の思い出や音楽業界を目指したきっかけ、音楽評論家として活動するまでの波瀾万丈の人生に迫る。
私が中学生の頃、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」が人気で、修学旅行のバスの中でモノマネをして歌ったら、評判が良くて、「歌手になりたい」と思うようになったのがこの業界を目指したきっかけでした。
高校時代には文化祭で友達とステージに立ったのですが、歌い終わると、トイレットペーパーなどが飛んできて、最初は賞賛の意味で投げ入れられているのだと思っていたのですが、どうやら「帰れ」というブーイングだったようで……(笑)それでも、ずっと歌手になりたいという夢を描いていました。
一方で、当時は東京大学(東京都文京区)へ進学するという目標も持っていました。しかし、「歌手になる」「東大に行く」という二つの目標は両立するのが難しく、常に心の中でこの二つの気持ちがせめぎあっている感じでしたね。
高校3年生の夏休みに担任の先生に相談したところ「お前はいい声をしているけど、音痴じゃないか。歌手になるよりも東大へ行く方が楽だから、歌手になるかどうかは東大に入ってから考えれば良い」と言われ、確かにそうだと思い、東大へ進学しました。しかし、進学は歌手になるための手段でしたので、2カ月で中退して歌手への道を目指し始めました。ところが、歌謡学校で先生の弾く伴奏のリズムに乗れなくて、自分には歌手は向いていないと考えるようになり、そこで歌手になる夢を諦めました。
その後、作詞家を目指した時期もありましたが、やはり才能を見い出すことができませんでした。
そしてその頃、吉田拓郎さんの歌に出会い、フォークソングという新しい音楽のジャンルを知り、感銘を受けました。実際に吉田さんや、たくさんのフォークシンガーとも親睦を深めていく中で、「これが俺たち若者の音楽になるかもしれない」と感じるようになり、音楽イベントを主催したのですが、結局大赤字になってしまい、イベンターも私には不向きでした。
歌手も作詞家もイベンターも向いていないと落胆していた時、雑誌でフォークソングの特集記事を見たのですが、その内容がいまいちピンとこなくて、“これだったら俺の方が良い文章が書ける”と思い、その場で評論を書き、出版社に投稿しました。
その投稿が編集長の目に止まったようで、ある日「うちで評論を書いてみないか」と誘いを受け、そこから私の音楽評論家としての人生が始まりました。
その時代はまだフォークソングの評論を書く人があまりいなかったため、タイミングも良かったのかもしれませんが、自分で行動し、いろいろな経験をしたからこそ分かることが多く、それらすべての経験が音楽評論家として活動する原点になっているのだと感じています。
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