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第6回 大学教員の役割分業(下)

2025/11/10

連載 関係性から考える大学のアレコレ
6回 大学教員の役割分業(下)
佐藤 万知


 前回は、大学教員の仕事を教育研究、教育、研究専任という役割に分業する制度の話を紹介した。大学教員全員が教育と研究をやりくりするのではなく、適材適所で分担するというある意味において合理的な制度と言えよう。これまで、大学教員の仕事は、教育と研究を一体不可分とするところにあると理念的に考えられてきた。そして、高等教育研究の領域では、その関係を実証的に検証する試みがされてきたが、統計的な有意性を示すことは困難とされている。その上、各種大学教員調査では、教育よりも研究を重視する姿勢が描かれるなど、教育と研究が二項対立的に捉えられている。実際の働き方において、理念型の教員像は理想でしかないということなのだろうか。
 私は、大学教員を対象とする専門性開発(主に教育活動に関する専門性)を支援する仕事に関わっていたが、そういった職務を持つ関係者の間では、「素晴らしい研究実績を持つ教員は、教育においても学生に支持される素晴らしい実践を行う」というのが共有されている実感であった。そのことを顕著に示す生きた事例として、カール・ワイマンが挙げられる。彼は、ノーベル物理学賞の受賞者であり、かつ、北米で物理学の教育革命を牽引してきた人物としても広く知られている。自らの主導で始めた「科学教育イニシアティブ」についてまとめた書籍『科学立国のための大学教育改革』では〝ある専門分野の有能な教員になるためには、(教育に関する専門性を備えていると同時に)当該分野の専門家でなければならない(p.33)〞と論じている。これは何を意味するのであろうか。
 仮に、最先端の内容を扱うには専門家=研究者である必要がある、という意味である場合、自らが研究をしていないと最先端の内容は理解できない、ということになる。だとしたら、そもそも最先端の内容を学ぶことも不可能になる。つまり、問題なのは扱う知識の難易度ではなく、研究するということが大学教員に及ぼす何かなのだろう。文化人類学者の松村圭一郎は『これからの大学』の中で「研究者」について、〝つねに過去の研究に学んで最新の理論や基礎研究を参照しながら、自分の知識をアップデートし、さらなるあたらしい「理解」に向けて試行錯誤するプロのこと(p.91)〞とし、その試行錯誤の「方法論」を教えることで、学生がどんな現場に立っても〝物事を冷静に判断し、問いをみいだし、自分なりの答えを導けるように(p.92)〞なると論じている。
 つまり研究するということは、大学教員を常に試行錯誤する状態に置くことになり、そこで生まれてくる考え方、取り組み方、態度、価値観などが教育活動を通じて学生に伝えられていく、ということなのだ。さらに重要なことは、そこで伝えられていくことは、ある段階で導き出された内容で、それ自体はさらなる試行錯誤の結果、変容する可能性があるという点だ。そこまで含めて学生に共有されることが重要なのだ。
 このように考えると大学教員の役割分業は好ましい状態とは言えない。大学教育の目的が、学生に考え続ける方法論を教えることなのだとしたら、試行錯誤をしながら生きている教員が言葉を紡ぎ出すことが最善なのだろう。つまり、大学教員はそのような言葉を紡ぎ出すことにもっと意識的にならなければならないとも言える。
 ここまで大学教員の役割分業に対して否定的な考えを述べてきた。しかし、実際にオーストラリアの大学を訪問し、さまざまな立場の教員に話を聞いていくと、少し異なる風景も見えてきている。それは個々の大学教員が果たす役割に集中しすぎるのではなく、さまざまな学術的活動を行うコミュニティとしての活性化に取り組むことで、異なる立場の構成員がこの大学コミュニティに参加して良かったという感覚を持てるようにする方向性だ。次回はこの点を考察してみたい。





 

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