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第10回 明治大学 山田雄一学長インタビュー

2002/04/25

山田雄一(やまだゆういち)

一九三〇年生まれ。

一九五三年東京大学文学部心理学科卒業、人事院勤務。

一九五九年冨士製鉄株式会社入社。

一九六九年茨城大学、一九七三年に明治大学経営学部に着任。

二〇〇〇年より明治大学学長。

職業能力開発審議会委員、産業・組織心理学会会長、国際応用心理学会理事等歴任。

「[会社]よりも[自分]が勝つ生き方」等著書多数。

二十一世紀は『個』の時代

世界的視野にたった『知恵』の獲得が重要

本紙 新しい『学習指導要領』が施行され、『週五日制』が導入されるといった大きな変化がある中で、教育の現状についてどのようにお考えでしょうか。 山田雄一学長(以下敬称略)

 まず、現在の社会が悪いですね。政治、経済その他のあり方が非常に良くない。そんな時には、教育のあり方も悪くなります。目標がどうしても見出し得ない状況が続き、まず『品』がなくなりました。それから『元気』がなくなりました。残念ながら現在の日本には、良いところがないのではと思います。最近は、『旧制度の教育がよかった』という意見が聞かれますが、そういった議論が出てくること自体、社会に元気がなくなった証拠だと思います。

 私の旧制高校時代の恩師にフランス文学者の市原豊太先生という、教育者としても実に立派な方がおります。その先生に色々なことを教えて頂きましたが、いつもおっしゃっていたのは、『日本はどんどん品がなくなっていく。豊かにはなっていくけれども、どんどん品がなくなっていく』ということでした。また次のように教えてくれました。昭和の初期、六年間にわたって東京に在勤したポール=クローデルというフランスを代表する詩人が、「この世界に滅ぼしたくない民族が一つある。それは日本だ」と言ったのだそうです。時は終戦間近の一九四三年ですが、日本民族は滅ぼしたくないというのです。彼曰く「日本民族は貧しいけれども気高い」というのです。そして市原先生は、「そのクローデルが、今の日本人を見たら何と言うだろう。彼らは金持ちになった、にもかかわらず、依然として気高いと言ってくれますかね」とおっしゃったのです。それがもう、二〇年程前の話です。その後の日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われて、一時期、アメリカの象徴ともいえるタイムズスクエアをはじめ、世界中の土地や建物を買い漁りました。しかも、それを損失を被って売却するという愚行を、日本の代表的な企業が行ってきたわけです。これはどう考えてみても、ノーブルなことではないです。そしてそれをおかしいとも思わずに今日に至ってしまっているのです。政治家も政治家なら、実業家も実業家です。その実業家に「もっと買え、もっと買え」とお金を貸していたバンカーたちに至っては、もう品がないの一語に尽きます。それでもまだ、国民全体の品が保たれているとするならば、それだけでもまだ幸運としなければならないと思っています。

 そういった状況においては、教育が栄えるわけがありません。教育が栄える時というのは、国が非常に苦しい状態に追い込まれて、何もなく、自分たちが後世に何を残せばいいのか、それはもう精神価値しかないのだという時、そして文明の大きな転換があった時だと思います。日本でいえば明治維新です。決して豊かではない時代でしたが、これから世界と伍していくには教育が必要であるとの認識がありました。新しい時代を築こうとする時には、教育から始まる。これは、一つの歴史の公式と言っても良いと思います。

 今、日本の教育は変わらなければならない時にきています。これは教育の内容、質はもちろんのこと、高等教育機関として教育・研究の質的向上を目指す時に、やはり資金が必要になります。その点では、世界を見回してもわが国が教育にかけているお金は、どうみても少なすぎます。国立大学ですら、授業料を学生から取っています。私学においては言うまでもないことです。例えば税制度をみても、大学への寄付金が無税となっていません。また助成金も少ない。例えば、アメリカの東部名門大学といわれるところも連邦政府から二〇~三〇%程の援助をうけています。日本では確かに、国は私学を助成していますといっていますが、実際は一〇%程度です。これは、本学が例外だということではではなく、日本の大学の平均的な数値です。ですから、私学においては財政面で様々な工夫が必要になってきます。

 そしてこの僅か一年以内に、優先的に研究費の配分を行うという、いわゆる『トップ三〇』構想が出てきました。今年の六月には、その申請のための資料を提出しなさいという指示です。これはもう私学としては、是が非でも申請せざるを得ません。本当に苦しい中でやっています。私学は肌を暖めあうように助けあっていかなければならないのです。これが日本の私学の財政的状況です。      

 では、教育の内容はどうかということになります。現在、国では教育のキーワードとして『ゆとり』、『自由選択』を掲げていますが、今年から始まる学習指導要領の内容について危惧を抱かせる言葉が多いのも事実です。学校長の裁量権が強化され、個性的で自由な教育によって、子どもたちを育てて欲しいとしていますが、果たして機能するのかどうか。これは、国公私立を問わず、全ての大学が危惧しています。それと呼応する形で、リメディアル教育が注目されています。リメディアル教育というのは、アメリカで行われたものです。アメリカのハイスクールでの教育がうまく機能せずに、基本的な学力を生徒に身につけさせることができなくなってしまった時にでてきたものです。基本的な学力は、どうしても必要です。その意味では、その時々に必要とされる教育を、しっかり施しておかないと駄目です。一人ひとりの可能性を広げるためにも必要なものです。

 やはり生きて行く上で、学ぶことは大切なことです。そして学ぶということは、決して楽なことではありません。人間は、誰だって怠けたいと思うものです。頑張ることなく、一日一日が終わっていけば楽かもしれません。しかし教育とは、楽なことより、もっと値打ちのあるものがあるということを知らせることですから、それに逆らうわけです。今は楽しいかもしれないけれども、そういう楽しみはすぐに終わりますよ。そうではなく、もっと何かある、うれしいこと、充実することがあるということを知らせる。そのためには、勉強しておいた方がいい、書物も読んでおいた方がいい、美しい絵も見ておいた方がいいということですね。そういうことを、日本の国全体としてやっていかなければならないと思います。

 現在の日本は経済的に非常に厳しい時を迎えていますが、こうした状況は教育環境にも影響します。今、新しい試みが様々な形で行われていますが、やはり大学としてはリメディアル教育を考えていかなければいけないと思います。これは単に学生に学ばせるということだけではなくて、実は中等、高等教育を通じて、教員自身の問題としてとらえる必要があります。最近は、よく『キレル』という言葉を見聞きしますが、仮に教育の現場で事件等が起こったら、指導する立場の教員、管理責任者としての学校長、あるいは学長は責任をとらなければならないはずです。管理、教育ということでいえば、一番大切なのは、安全管理であり、安全教育です。企業でいえば、安全教育を施さずに、作業現場に就かせることはあってはならないことで、違法となります。安心できる教育環境の必要性は、もっとしっかり認識されるべきで、教育を行う者はそのことをもう一度考えてみる必要があります。これはいじめの問題への対応といったことも含めてのことです。学校の管理者であるべき教職員が、それを忘れ、対応できない状況というのは、いいようのない教育の荒廃だと思っています。

  また、『ゆとり』といいつつ、ただ負担を軽減すれば、良い教育が行われるのか。子供にしてみればただ楽になるだけではないのかという危惧があります。現代社会は、本当に便利に暮らせるようになりました。コンビニエンスストアへいけば空腹などはすぐ満たされる。額に汗して働かなくてもよくなった。益々楽になってきています。負担を軽減することは、文明の進歩の原動力ですから、どんどん負担が少なくても生きていけるという状態になってきています。しかし、そういう状況であればこそ、人には精神の糧というものが必要です。ですから、今すぐには役にたたなくても、例えば東洋の古典といわれるようなもの、ヨーロッパのそして日本の古典といわれるようなものは、十二歳~十八歳までに一通りは読んでおく方が良いのではないかと思います。そういう喜びを与えることが教育だと思っています。現代はIT化、グローバル化が強調されますが、子供たちに、ただその言葉を聞かせただけでは何も身につかないのです。身につけるためにはやはり学ぶこと、練習することしかないのです。グローバル化の時代だと言われ、これからは英語を勉強しなければならないという。その結果、英語が話せるようになったとしても、果たしてその人は、何を話すのでしょうか。英語が話せるだけでは、実は使いものにならないのです。何を話すか、何が話せるかが重要なことなのです。明治大学の野球部の監督だった島岡さんは、『人間力』という言葉を使っていました。人間性ではなく、人間力です。人間の力、良い言葉だと思います。数ある島岡語録のなかでも、光輝く言葉です。これは要するに人間としてどれだけ総合的な力があるかということだと思っています。

『知恵』の獲得で『気高い』人材の育成を

本紙 明治大学のメッセージとして、「個を強くする大学」「おもしろい大学」を掲げられていますが。 山田 日本では、「和」が昔から尊ばれてきました。日本民族は話し合いをして、角の立つ議論などせずに、和をなしていきなさいという教えのもとに民族性を培ってきたという背景があります。確かにその通りなのです。しかし、世界は「個」が尊ばれる時代に入ってから、すでに二百年余もの経過を経ています。本学は、一八八一年に「明治法律学校」として開かれ、百二十一年の歴史を有しますが、その当時としては全く画期的な「近代的市民社会の支え手を作る」ことを理想としています。三人の創設者の一人である岸本辰雄先生はすでにその頃、「男女同権」だということを、明確に打ち出しているのです。その線に沿って、本学においては女性に対する高等教育が非常に早い時期から行われています。本学の法学部に他大学に先駆けて幾多の女子学生が学んでいたのは、当時の女子専門部で法律を学んだ人たちに大学で法律の勉強をする機会を提供していたからです。戦後、最初に司法試験に合格した女性というのは本学出身です。

 近代市民社会の倫理の根底は「個の独立」、「個の権利自由」、「個の独立自治」であり、その考え方から社会をつくり、社会の担い手を輩出しようとするのが、本学の理念です。「個」を強くするというのは、「権利自由・独立自治」という、本学の校歌に歌われている言葉を二十一世紀型に、パラフレーズすれば、「個」を強くする大学ということで、完全にその理念に重なるものです。ですから、二十一世紀は、本学の出番だと思っています。

 例えば現代のIT化、グローバル化を考えてみると、「個」がクローズアップされます。「個」の情報提供、交換ができるということがIT化です。その時に求められるのは、きちんと情報を検索できて、しかも集まってくる様々な情報を必要なものとして分類できる力です。それがこれからの大学教育において行われるかどうかが問われる時代になってきます。情報を集めてくること、情報を分析することは大事なことですが、さらにその中から、自分にとって意味のある何ものかを形成してゆく、「意味形成」の能力が重要です。「ミーニングメイキング」が上手くできなければならないのです。現在、この「意味形成」の力の重要性がアメリカでも、ヨーロッパでも、日本でも認識されています。意味を形成することによって、人々の間に意味あるつながりを生み出します。そして、やはり人間と人間とのつき合いには「倫理」が必要です。世界中が、人類が生きていく意味を問おうではないかという方向に動きだしています。二十一世紀はまさしく、そういう世紀になるはずです。

本紙 そうした時代、二〇〇四年に「情報コミュニケーション学部」を開設されますね。 山田 「コミュニケーション」というのは、「コミューン」ですから、人と人とが共同体としてつながって生活していきましょうということです。それこそ世界的な視野で、人が行うあらゆることにどのような意味があるのかをきちんと考えていける人間を育てることが、これからの大学の最大の使命です。

 二〇〇四年に開設する「情報コミュニケーション学部」の「情報」は、やはりITです。ITを道具として使いこなし、情報を分析する。従って、ITを道具として使いこなすことを一つの柱としています。ただし、単なる情報は、インフォメーションにも加工されていませんし、ましてインテリジェンスにもなっていません。当然のことながら、知識にならなければ知恵にはなりません。知恵となって初めて意味が生まれるのです。そして、個々の知恵、人の間にコミュニケーションが生まれ、そのコミュニケーションによって、心と心が通い合うという間柄になります。つまり共同体になるのです。共同体の復活という願いを込めているのが、「コミュニケーション」です。「情報」とはいわば、市場原理です。それに対して「コミュニケーション」は共同体原理です。ですから、市場原理においても、もちろんトップランナーになれるような人材の育成を目指します。そして欲張っているようですが、それだけではいけない、人と人との繋がりを大切にすることも重要な教育目的です。先程のポール=クローデルが言ったように、やはり「気高い」といわれる人材を育成することが一番肝要と考えます。二十世紀は民族紛争、経済戦争により、共同体をずたずたにしてしまいました。二十一世紀はその共同体を復権させていこうということです。日本には国民的歌集「万葉集」があります。他を思い、他を慈しむやりとりを歌った歌集「万葉集」を持っている国です。万葉集を勉強するのは、明治大学に合格するためではないと学生には話しています。自分が豊かな生涯をおくるために読むのです。その中で一番愛唱されるのが相聞歌です。また、それ以上に感動をよぶのが挽歌です。死を悼む歌。人生は出会いと別れですから、出会いと別れを人間からとってしまったら何も残らないのです。出会いと別れ全てが共同体なのです。世界の荒波の中で、自分の個を人々のために役立てて使ってもらえるような、そして至る所に根をおろして共同体を作っていけるような、そうした学生を育てて参りたいのです。そうした思い、考えを礎として、本学の「情報コミュニケーション学部」は開かれることとなります。

本紙 新学部の開設に伴い、短大の募集を停止しますが、その理由をお聞かせ下さい。 山田 創立当時から女性教育に力を入れてきた本学にとって、短大はとても重要な意味を持っていました。しかしながら、本学の目指すものを具現化するときに、現代において修学期間が二年間というのは短いのではないかという認識があります。現代の社会的な要請も、大学四年間の中で体系づけられたものとなっています。本学としても責任を持って教育を提供していきたいということから、短大を発展的に解消し、新学部にそのノウハウ、これまで蓄えてきた実績といったものを昇華させたいとして、全学一致で決断をしました。ですから新学部は、女子学生にとって魅力ある学部として受け入れられることも考え、期待もしています。また女性教育については、研究所をつくり、より深く、本学らしい研究、教育を行える人材を育成したいとも考えています。

 「二十一世紀は明治大学の時代」といいましたが、生涯型教育への対応、夜間型大学院、法科大学院の設置等々、ドラスティックに動いていくつもりでいます。

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