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第17回 東京純心女子大学田崎 清忠学長インタビュー

2003/08/25

 東京純心女子大学

田崎清忠(たざき・きよただ)学長

東京高等師範学校(現筑波大学の前身)卒。フルブライト法によりミシガン大学英語研究所留学。帰国後、NHKテレビ英語会話番組講師。応用言語学と視聴覚教育の手法を用いて独自の語学番組を構築し、その功績により「放送文化基金賞」受賞。高円宮杯全日本中学校英語弁論大会およびホノルル市長杯全日本青少年英語弁論大会審査委員長。著書は「アメリカ生活語彙辞典」(講談社)、「現代英語教授法総覧」(大修館)、「アメリカン・ライフ辞典」(研究社)など多数。横浜国立大学名誉教授

個性ある『教育』の質・内容が重要

本紙 少子化が進み、大学経営はますます厳しい局面を迎えようとしていますが、そんな状況の中で三年前に学長に就任されています。その経緯はどのようなものだったのでしょうか。 田崎清忠学長(以下敬称略) 一九九六年に横浜国立大学を定年退官しました。私は若いときからテレビの仕事もしていましたし、もう十分働いた、だから後はのんびり好きなことをやって過ごそうと思っていました。そこに純心からのお話があり、週に一回、一時間でも講義をして欲しいとのことなのでお引き受けしたんです。でも、大学が危機に瀕している現状をつぶさに見て、自分にできることがあればやるべきだと思うようになりました。長崎にある純心聖母会が設立したカトリック女子大学で、聖母マリアの心を教育の場で人に伝えることに日夜明け暮れておられる献身的なシスターの皆さんに心を動かされた、と言っていいのかもしれません。 本紙 女子大であることの難しさもあるのでしょうね。 田崎 男子が来れば活性化しますし、共学にしたらいいという考えもあるのですが、設立の考え方が日本の女子教育に貢献するという目的ですからね、そうもいきません。

 初めからハンディキャップがあるわけでね。本学を受験する生徒は女子だけですから、自動的に対象が半分になります。その上、経済状況が悪化すると、昔みたいに「大学だけは東京に」とは考えず、「地元で済ませられるなら済ませたい」となる。そうすると各大学、とくに私立大学は地元志向にならざるを得ません。

 本学の場合、主たる対象は八王子の女子高生です。この辺一帯の二十一大学で、限られた生徒を確保しようとするわけです。小さい大学、若い大学、よく知られていない大学は、なかなか大変な状況です。難しい舵取りだなと実感しています。

『子ども』『遊び』のあり方から

将来を見据える視点を

本紙 そんな中、昨年の入試では、受験生が増加傾向を示したと伺いました。何か新しい試みなどをされたのでしょうか。 田崎 上向いた理由については、今まさに調査中です。理由がはっきりせず何となく上向きになった、だけど次の年はよくなかったというのでも困りますので。

 もちろん、いろいろな試みは行っています。大きな改革のひとつは、来年四月からの「こども文化学科」の立ち上げです。まだスタートしていないのですが、問い合わせがときどきあって、すでに手応えがある。「今年からやらないんですか」とか、「今年入ったら来年新しい学科に移れますか」とかね。『こども志向』に新鮮さと時代の要請があったと見るべきかもしれません。 本紙 なぜ、いま「こども文化学科」なのでしょうか。 田崎 『こども』という名前のついた学科は、全国を見ると本学だけではなく、すでに申請しているところ、スタートしているところもあるようです。でも、同じようなことなら、やる必要はないと思いますよ。

初めは「こども文化」ではなく、「あそび文化」にしようという構想だったんです。

 子どもの生活の中でいちばん欠けている部分というのは、遊びであると。学びの方は、大人たちが一生懸命になって、手を変え品を変え行っていますよね。ところが気がついてみたら、子どもはほとんど遊ばない。遊び方も知らない。文化というのは、子どもの頃からの遊びによってだんだんに培われるものです。遊びを学問的に研究し、教えてくれるところは、日本全国どこにもない。ですから最初は、「あそび文化」にしようとスタートしたのです。

 だけど、「遊び」というと、「学び」との対局にあるように受け取られる。大学って本来学ぶところなのに、そこで「遊び」というのはまずいのではないかということになった。とくに年長者は、「遊び」という言葉に拒否反応を示すし、もし本当に「あそび文化学科」にしたら、世間的に理解を得るために大変な努力が必要になる。それで、途中であきらめて「こども文化学科」にしましたが、あくまでも本質は、「遊び」を学問としてとらえ、これを実務的に応用し教育しようというところにあります。

 具体的には、保育士の課程をつくる予定です。保育士課程は普通二年なので、保育士資格の取得だけが目的なら、学生はわざわざ四年制の大学に来なくてもいいことになります。四年制の大学に来て保育士課程をとる以上は、普通のこども学科ではいけない。プラスαが必要になる。では、何を強みにするのかということになりますよね。

 例えば、本学は語学が強いという伝統がありますので、ただの保育士ではなく語学力をつけて、国際的な保育園や学童館、外国人との関わりをもたせる道を開くとかね。新しい視点や展望、希望をプラスできないかと思って、カリキュラム上の工夫をしたり、教員にそういう方面の研究をしてもらったり、今そういうことをやっています。もちろんベースになるのは、キリスト教ヒューマニズムです。

 女の子ですから、母親になれば学んだことは役に立つでしょうが、保育園など、子どもが動いている場所に、キリスト教ヒューマニズムをベースにした遊びというものを体系的に学んだ人が入っていって、その教育がだんだん浸透していけば、少しずつですが日本の片隅から「子ども」が変わっていくという、そういう発想です。 本紙 人を愛し、社会の役に立つ人材を世に送ろうという、貴学の「純心教育」が、具現化されるわけですね。 田崎 そうです。加えて、もうひとつの可能性についても検討中です。まだ、実体は何もないのですが、もし「子ども」で何かユニークなことができるのなら、「老人」に対しても何かできるはずだと、ね。

 老人というと、福祉につながりますけど、福祉の世界もどんどん変わってきています。病気がちの人、痴呆症の人、身体が不自由な人、いろいろな老人のタイプがある。その老人に対して福祉という限られた分野だけではなく、どういうケアをするかということを考える。そういう学科を立ち上げれば、小さい子と老人と両方ができる。本学らしい学科ができるのではないかと考えています。それがこれから二・三年の課題です。 本紙 宗教をバックボーンにもつ大学は、教養というものをしっかり教えていくべき存在だと思います。教養教育という点については、どのようにお考えですか。 田崎 本学はカトリシズムに基づき、人にやさしい、社会に役立つ人材を育てるという考えが根本にありますので、それに対応する科目を設置して、ヒューマンな教育をやらなければならないわけです。ところが卒業に必要な単位が一二四単位で、しかもその中身はどうしても学生の希望するような実務的な科目を並べなければならないとなると、直接免許や資格につながらない科目というのは押し出されちゃいますね。哲学はもう教えないでよろしい、世界史も本当は教えなければいけないが、それはもう止めようということになる。

 結果論として、いかに高邁なるモットーを掲げても、実情はなかなか思うように進まない難しさがあります。これは、現在の大学全体が抱えている問題でもありますね。

 免許や資格に対する志向が強くなっている今こそ、本来の大学、とくに小さい大学は、やっぱり教養教育で特長を出すべきなのですが、そんなことを言っていると全然学生が集まらない。この大学を出たらこういう資格がとれます、こんな免許が手に入ります、こういう職業につけますというところを売り物にせざるを得ないのです。

 私の知り合いの長男は、大学がイヤで、専門学校に行って就職したのですが、「腕に職をつけたので、将来に対する不安も非常に少ない、今日はこれを覚えた、これができるようになった、楽しみが毎日のようにある」というような心情を、会社のPR誌に書いています。そんな現実を見ると、高額な学費を払って四年間で何となく教養を身につける教育は、もう受け入れられないのだろうかと、すごく寂しい気持ちになりますね。

 何にもならないように思えますよね、教養というのは。すぐには、お金にならないですから。だけどそれが結局は人間に深みをつけて、危機に瀕したときの判断材料に違いが出てくるはずなのです。そういうモノの見方が、若い人にあまり通用しなくなってしまった。

語学教育、教養教育をベースに新しい大学像を提示

本紙 いい意味での余裕というか、無駄がなくなった、ということですね。 田崎 人生がスムーズに運んでいく人なんて、一人もいない。どこかで必ずぶつかるし、衝突も起こるし、どうしようかと悩むこともある。それらをすべて乗り切っていくわけです。その乗り切り方が、多分きちんと基礎教育や教養教育を受けてモノの考え方を身につけた人と、そうではなくてきわめて実務的なタイプの人とはどこかが違うはずだと思います。

 日本全体が教養教育をないがしろにするムードになって、国がそういう方向に向いていってしまうと、これは単に子どもの問題では済まない。国の問題ですね。私が携わっているのは、東京純心女子大学というひとつの大学にすぎませんけれども、この大学のさまざまな問題を考えたり、解決したりするプロセスで、日本全体はどうなのかと常に考えています。 本紙 大学教育の意義が真剣に問われている、あるいは深刻に問うべき時期になっているということでしょうか。 田崎 大学教育だけではなく、高校教育も含めて日本の教育のあり方を見直さなければならないと思います。

 これまでの教育のあり方というのは、狭い小さい日本の中に人があふれて、必然的に競争社会ができて、そこで生き残るためには、いわゆるブランドの大学に行くことが将来を保証する、国立大学は私立大学よりもいいんだと、スタッフも揃っているし、設備も揃っているということで、国立大学を志すことに向かう。合格するためには激しい受験戦争を闘わなければならない。そういうパターンが長く続いてきました。

 外務省の不祥事や官僚の堕落などは、よく考えてみるとそんな流れとつながっているような気がします。エリート教育で偏差値だけで輪切りにされて、その値の高い人が国立大学に行って、また偏差値中心の教育を受けて役人になるわけでしょ。役人、とくに高級官僚にそういう人が多い。そういう人が国を動かしているわけですから、国全体がおかしくなっちゃう。人間性を疑うような発言がポロッと出たりするのは、やっぱり知らない間に、大学教育や教育全体がゆがんでいた結果だと思いますね。

 本学は、いわゆるブランド大学ではありません。ここで私たちができることは、四年間でどのくらい伸びたかを実感してもらうこと。そして、個々の学生が、どのくらい満足して、自分のこれからの人生を過ごせるかが、私たちの評価につながってくる。「よく考えてみたら、やっぱりこの大学はしっかり私を教育してくれた」と言ってもらえるような大学にするのが、生き残る道だと思うのです。

 幸い、本学の学生たちは非常に学園の雰囲気を好んでいるようで、自分は自分なりに勉強したことが役に立つ、楽しいという学生の声をよく聞きます。これはとてもいいことだと思います。

 学生が減っていると、なるべく少しでも多く受験してもらいたい、なるべくたくさん確保したい、そこに神経が集中しがちです。それはもちろん大切なのですが、例え少なくても、受け入れた学生を四年間でどうやって大事に育て、望ましい人間像に近づけて送り出すか、そこで勝負すべきであると、教職員にはそんなことを常に話しています。 本紙 なかには英語教育を前面に出して勝負をしようとしている大学も多くあります。英語教育は先生のご専門ですが、どのように思われますか。 田崎 本学も、語学教育は一生懸命やっています。これからの世の中を考えると、どんなことをやるにせよ、英語に限らず、何か外国語をひとつ武器としてもっているということは、必ずどこかで強みになりますから。英語コミュニケーションコースのように英語だけを勉強する人はもちろんですが、そうじゃない人にも英語をしっかり勉強するように指導しています。

 コモンルームというのを一部屋設けまして、外国の方を配しています。そこでは勉強ではなく、学生が気軽におしゃべりをしたり、お昼にお弁当を食べながら会話をしたりするのです。 "I Speak English"というキャンペーンも行っています。胸にバッジをつけている者同士は英語で会話をしなければならないシステムで、バッジは「私は英語で話します」という意思表明なのです。一週間に一回は、日と時間を決めて全員がバッジをつけます。芸術文化学科はつけませんけれども、現代英語学科は必ずつけます。割に好評ですよ。

 はじめはイヤかもしれないけれど、無理矢理バッジをつけることを強制されるので、恥ずかしくなくなるようです。バッジをつけたら英語を話すという約束の下で、半日なり、一日なりを過ごすうちに、だんだん慣れてくる。強制されていたものがうまい具合に動き出し、ドライブにつながっていきます。なにしろ全員バッジをつけますから、逃げられないのです。

 二○○○年十月からは、八王子市の教育委員会の要請があって、本学の学生が小学生に英会話を教えています。「総合的な学習」の時間に行うのですが、学生にとっては教育実習と異なり、自由な発想で授業を組み立てられるおもしろさがあって、児童を理解するいい機会になっている。児童からも楽しいと好評です。

 同じようなことを、いずれは海外でも行いたいと思っています。アメリカ留学の際、小学校やデイケアセンターのような施設とタイアップをする。例えばデイケアセンターなら、アルバイト的にアメリカの子どもの世話をしながら現地の大学に通えば、実習と留学の勉強を一度にパッケージで体験できる。そういうことを計画しています。

 「国内ホームステイ・プログラム」は、今年で三年目です。日本に住んでいる外国人の家庭に学生を預け、そこから大学に通学させるのです。大学から帰ると「外国」がある。しかもお金の面では海外留学に比べて格段に安く済むというメリットがあります。

 最近、各大学が行っている企業インターンシップも、本学の場合は、アメリカの会社の日本支社で、社員の大部分が外国人という会社と約束を結んで学生を送り出し、アメリカの会社に勤めているような訓練を受けています。直接、英語に触れる環境・状況をつくることに力を入れています。 本紙 最後に、「東京純心女子大学」のめざす姿についてお話下さい。 田崎 一方には巨大化していく大学もありますが、私たちは一九九六年に誕生したばかりの小さな規模の大学です。カトリック大学であることに誇りをもって、教育を実践していきたいと考えています。

 めざすのは、「かしこく、人に優しい大学」「小粒だがキラリと光る大学」。

 カトリック大学だからできる、新しいから、小さい大学だからできる何かを追究していきたい。しなやかできめの細かい、しかもダイナミックな教育で、学生を育てていきたいと考えています。

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