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第36回 上智大学大学 石澤 良昭学長インタビュー
2007/02/25
石澤 良昭(いしざわ・よしあき)
1937年生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。聖マリアンナ医科大学、鹿児島大学を経て、上智大学外国語学部教授に。2002年から21世紀COEプログラム拠点リーダーとして活動。2005年、上智大学学長となる。
アンコール遺跡研究を専門とし、アンコールワットを守る技術者の人材育成に力を注いだ。ユネスコや文部科学省の専門委員としても活躍。
奉仕を掲げて100年 「上智モデル」を世界へ
隠れたものをきちんと見つめる人間学
本紙 これまでも、国際的に活躍する人材を多く輩出してきた上智大学ですが、石澤学長の考えられる「上智モデル」とは、どのような人材を指すのでしょうか。
石澤良昭学長(以下敬称略) 私が考える「上智モデル」とは、「言語力」が柱となっています。「言語」といっても、外国語を専門とするのではなく、あくまでコミュニケーションの手段としての言葉であって、外国語以外に法律や経済といった自分の専門はきちんと学んでもらいます。言語を学ぶことで、自分の専門を世界に発信できるようになる、それがトータルとしての「上智モデル」です。
外国語も、英語だけでなく、第2外国語を合わせて最低2カ国語を話してほしい。というのも、いまは英語が世界共通語となっているところがありますが、英語だけでは通用しないところも多いのです。
私自身、遺跡調査でカンボジアに行きますが、遺跡というのはたいてい街中にはありませんから、奥地奥地へと入っていきます。そういう所では英語はまず通用しません。現地の方に道案内をお願いするわけですが、右、左といった方向にはじまり、その日の食事、泊まるところなども現地の言葉で話さなければいけません。日常、言葉が通じて当たり前と思っているところがありますが、英語ですべて用が足りるわけではありません。民族によって違う言葉を覚えることで、きちんとした心の交流が可能になると実感します。
また、現在本学では日本語を含め17カ国語におよぶ語学科目を開講していますが、英語以外の言語を学ぶことで、世界が広がります。英語しか学ばないのであれば、英語の文献しか読むことができません。しかし、フランス語もできれば、英訳されていないフランスの文献も読むことができ、広いさまざまな世界を理解することができるのです。そのように、英語ではない世界に対しても付加価値を持ってほしい。上智に入ったからには、英語プラスワンで学んでほしいですね。読んで、書いて、話すことができると、それが自分の専門に対する自信につながっていくのです。
本紙 外国語教育とは、さまざまな世界を理解するために必要なのですね。
石澤 本学から世界に向けて何を発信できるのかというと、やはりその基本は「語学」なのです。自分の気持ちをきちんと表現できることが何よりも大切だと感じます。語学教育は、肌の色や国籍を超えて、同じ人間であることを実感することです。
本学では、TOEICの得点が約650程度で入学してくる学生が多いですが、それが卒業時には750から800ほどになります。初年次にプレイスメントテストというもので、成績別のクラス分けを行います。そして、学年があがるごとに初級から中級へといったようにレベルアップを行っています。一定のレベルに達しないと単位が取れませんので、卒業生などは「こんなに勉強させられるなんて思わなかった」と話しています。
本学には、他学部他学科開講科目の単位を各学科が定める単位数まで卒業単位に算入できるクロスリスティングという制度があります。例えば、日本人学生が英語で授業を行う国際教養学部の授業に出席しても、語学教育はしっかり行っているので、文学部の学生が国際教養学部の英語討論の授業を受けても負けていません。
また、昨年4月より比較文化学部を改組した国際教養学部が、市谷キャンパスから四谷キャンパスに移ってきました。国際教養学部というのは、58年前に前身の「国際部」ができたときから、セメスター制や秋学期入学などアメリカの大学と同じシステムで運営されています。授業もすべて英語で行われていますが、そうした学生が四谷に来ることで、他の学部の学生にとっても刺激になるでしょう。
例えば、食堂などで一緒に食事をとると、隣の学生に「何を食べているの?」と英語で話しかける。そうすると、国際教養学部以外の学生でも英語で答えるわけです。会話をしていて、例えば、複数形の÷`S÷aをつけ忘れて話してしまった、と気付けば、その後気をつける。お互いにやりとりをしあう中で自信が生まれます。学生同士がお互いに「一緒に食事をしよう」というところから、言葉だけでない、本当の意味の交流が始まるのです。今、国際化の時代といわれますが、本学としては昔から当たり前にあるものなのです。
言語を通して人を知り自分を知る
本紙 学長ご自身も、アンコール遺跡のご研究で海外に行かれることが多いと思いますが、「海外に一度は行け」と、よくおっしゃっていますね?
石澤 こうしたことを含めて「海外で腕試しをしてきてほしい」と学生には言っています。現在、本学では年間200人ほどが交換留学に行っています。そこで、語学を実践で使うということも、もちろんですが、ホームステイなどで出会った人が、自分と同じように生活をしている人間なんだ、ということを感じてほしいと思います。
もちろん、国内のインターンシップなどで経験することも良いでしょう。しかし、海外であることの意味というのは、自分を日常とまったく違う環境に置くことにあるのです。そうすると、体調の快・不快も含めて、環境に対する免疫力があるかどうかがわかります。
私はカンボジアに何度も行っているので免疫がつき、病気をすることもありません。しかし、初めてカンボジアに来た人で、非常に屈強な体格な方なのに、現地で私と同じ水を飲み、同じご飯を食べてもその人だけが体調を崩したのです。本人は「日本で病気をしたことがないのに悔しい」と言っていました。日本にいるときとは違うのです。
また、そういう時に現地の人に助けてもらった経験などは忘れません。例えば足をねんざした時も、現地には湿布薬はありませんので、腫れを取るために植物の葉で代用したりするわけです。日本であればすぐにコンビニに走ってしまうでしょう。そういう状況でない中で、自分がどう生きるか。そうしたアクシデントも含めて自分探しをしてほしい。
親許から離れて、自分が自分であることの理由を考える。こういうことが大事だと思います。そして、自分は何をするべきなのか、世界に対して、日本に対して何ができるのかといった目的を見つけてほしいですね。
本紙 「自分探し」という点では、上智大学は「人間学」にも力を入れていらっしゃいますね。
石澤 本学の考える教養教育は「本当の人間を探す」ということです。
「人間学」という1年次の必修科目と選択必修科目の「人間学系科目」がありますが、ここではさまざまな教員が多方面から「人間」をアプローチします。必修の「人間学」は1年次のfirst semesterに全員が履修します。「人間学系科目」は、「物語と人間」「東洋の自然観」「生命学」「夏目漱石の思想」「死の哲学」「差別と人権」「フェミニズムの社会観」「諸宗教とキリスト教」など毎年80科目以上開講されています。こうしてあらゆるツールで「人間」というものを学生に問いかけます。
私はよく学生に、ソクラテスの時代にいたディオゲネスという哲学者の話をします。彼は、アテネの市内を昼間からランプをつけて歩いて、「昼間でもランプをつけなければ、本当の人間はわからない」と言いました。周りからは嘲笑されたのですが、後に、彼の言うことが本当の真理探究だ、と言われ始めた。こうした話は学生にはピンとこない部分もあるでしょう。しかし、後になって「こういうことだったのか」ということが伝わればいいと思っています。
本紙 学生はそのときわからなくても、後からわかればいいということですか?
石澤 人間学は、即効性はないかもしれないが、5年後、10年後にじっくり効いてくる学問なのです。もちろん全員が興味を示すわけではないですし、こんなくだらないことをやって…と思う学生も中にはいるでしょう。しかし、やがて眼に見えないモノが見えてくるわけです。
こうした人間学の科目は、必修ですので、履修すればOKという事ではなく、きちんと理解してもらわなければいけません。全員手をつないで合格させましょうではなく、成績が悪ければ落第させます。外国語の場合もそうですが、一定の水準に達していない学生を落第させることは一種の教育的配慮であると考えています。
未来を見据えた「人間探し」という教育
本紙 「学生の立場に立った教育」とよくおっしゃっていますが、どういうことなのでしょうか。
石澤 「学生のため」と言う場合、たいてい「自分も含めて」でもあったりするわけです。しかし、学生の立場と言ったとき、それは学生に迎合することではありません。学生がこうしてほしいということをそのまま受け入れるのではなく、例えば、クロスリスティングの履修方法をきちんとガイドするとか、学生が悩んでいるときに専門の先生がアドバイスするとか、学科の定める合格の水準に達していなければ卒業させない、ということも一つのあり方です。
ちやほやするのが学生のためとは思いません。だめなモノはだめ、という立場をはっきりさせれば、学生もわかってくれます。学生一人ひとりを大切にすることが、本学の建学の精神ですが、甘やかすことではなく、時には突き放すことも必要です。そういう意味で「学生の将来の立場にたった」教育をしていかなければいけません。
本紙 最後に、上智大学は、今後どのように変わっていくのかお聞かせください。
石澤 上智大学のこれまでの実績は大切にしていきたいと思っています。500年も前に聖フランシスコ・ザビエルが日本の都(ミヤコ)に大学をと願い、その350年後の20世紀初頭にザビエルの願いを受け継いだイエズス会の神父たちが大学を建てようとしたときと同じように、建学の精神というものは昔も今も変わらないのです。私たちは惜しみない奉仕の精神を掲げ、友人が困っていたら助けてあげましょう、という考え方が、基本です。
この建学の精神である「キリスト教ヒューマニズム」は、惜しみない奉仕の活動により、いろいろな社会正義を実現して行こうというものです。
今、考えていかなければいけないのは「地球温暖化問題」です。イギリスの有名なオスカー・ワイルド(1854年~1900年)という作家の『幸福な王子』という作品があるのですが、街の高台に立っている王子の像は、「自分は高いところにいるから不幸な人や貧しい人がすべて見えてしまう」と言って涙します。私はこの王子の姿が今の地球の姿なのではないかと感じています。地球全体が病んでいるとき、自分たちはこれからどうすればいいのか、ということを学生に伝えていきたいですね。
こうした問題を解決するときに、そこに人と人が共に生きるという考え方が必要です。奉仕の精神を掲げて100年になりますが、他人の痛みを分かち合い、それを和らげる、その基本的なヒューマニズムを踏み外さないようにしたいです。技術や理論を教え、それで終わりではないのです。病んでいる部分をきちんと見つめること。それを進めていくのが大学だと思います。