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溝上慎一(みぞかみ しんいち)京都大学高等教育研究開発推進センター・准教授。京都大学博士(教育学)。 1970年福岡県生まれ。1996年大阪大学大学院人間科学研究科・博士前期課程・修了。同年4月京都大学高等教育教授システム開発センター・助手を経て、2003年より現職。主な著書に、『大学生の学び・入門 大学での勉強は役に立つ!』(有斐閣)、『心理学者、大学教育への挑戦』(ナカニシヤ出版)など多数。 http://smizok.net/

第1回 世に問われ始めた大学生の学び、その実態は?

2007/04/25

 いま大学教育改革は、かなりオーバーヒート気味にまい進している。1990年代にはいるまでの大学の授業は、一般的に言ってかなりひどいものであった。まずここに、改革のメスを入れなければならなかった。多くの大学は「学生による授業アンケート」を実施することで、この問題に対処しようとしたが、同時に次のような問題が浮上した。良い授業というときの「良い」とは何なのか、ということである。改革以前であれば、授業への不満として、「声が聞こえない」とか「黒板の字が見えない」「黄色くなった講義ノートをただ読み上げるだけ」といったようなことが挙げられていた。だから、授業改善は「もっと魅力あるおもしろい授業を!」という期待にもつながった。しかし、昨今の教員の教育方法を見ると、改革の成果からか、上記のような授業をおこなう者はほとんど見られなくなった。もう改革は必要ないのか?

 「良い授業」の定義は、いかに学生を育てるかという点へ収束した。声の大きさや板書のしかたなど、教育技術は二次的な問題だ。学生たちが授業を受ける前には考えもしなかったような世界を、一連の授業が終わる頃には考えられるようになっているか、基礎的な知識や技能をしっかり身につけて、次のステップへ進んでいるか、そうした学習の質が「良い」教育方法の指標として考えられるようになったのである。魅力あるおもしろい授業は今でも求められている。しかし、学生たちが目を輝かせて聞いても、その理解の質はしっかりとチェックされる。カルチャーセンターではないのだ。聞きっぱなしということは原則としてあり得ない。

 さあ、こうなると大変である。これまでの卒業生のなかで、大学の一連の授業内容をしっかりと理解し、それを身につけることを求められた者などいるだろうか。ある程度の理解をもとにテストを受けたりレポートを書いたりする、というのが実情ではなかったか。教員側としても、学問をそんな簡単に理解されてたまるかと思っている節もあったし、そんな良い答案やレポートが、次から次へと出てくることなどそうなかったことだから、まあこんなものだろうという具合に相対的に評価して、ひどいものだけを不可にする、そんな評価がごく普通におこなわれていた。 しかし、そうした結果が、自分の授業をおこなった成果なのだということになってくると話は別である。なぜこれがわからない、なぜそれを知らない、どうしてやらないのだ、などといったように、これまであまり気にならなかった学生の学習の質が、非常に気になってくる。必然的に、この意識は学生の学習改革へと向かう。

 たしかに昨今の学生の学習改革が進められる背景には、知識水準の低下、大学全入時代を迎えて、学習の質が全般的に落ちていることがある。しかし、問題はそうしたことに加えて、あまねく学生の学習の質をしっかりとチェックし、評価するようになったことにある。楽勝科目が完全になくなったわけではない。しかし、出席もしないでテストやレポート一発勝負で単位を取るというのは、まず不可能になってきている。こうして学生は、わからなくてもやる気がなくても、とにかく教室には行かなければならなくなった。この状態をつくりだしたのが、良くも悪くも、現代の大学教育改革の一つの成果である。

 しかし、まだこの段階は、学生に授業内容をしっかりと理解させることだけに話が終始している。学生をどう成長させるかという話がまったくない。これが次号の論点である。

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