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苅谷剛彦(かりや たけひこ)

1955年東京生まれ。東京大学大学院教育学研究科¥教授。米国ノースウェスタン大学大学院で社会学博士を取得。専門は、教育社会学、比較社会学。主な著書に『階層化日本と教育危機』(有信堂、第1回大佛次郎論壇賞奨励賞受賞)、『教育改革の幻想』(ちくま新書)、『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)、『知的複眼思考法』(講談社)、『教育の世紀』(弘文堂)、『考え合う技術』(共著、ちくま新書)ほか多数。

第5回 「構造改革」の大鉈

2005/12/25

 この連載でも何度か触れた、いわゆる「三位一体の改革」の焦点の一つ義務教育費国庫負担金制度について、11月末に政府・与党間での合意が成立した。「義務教育費国庫負担制度を堅持する」と明記しながらも、地方側が要求していた8500億円の一般財源化を承認。その分、教職員給与の負担率を2分の1から3分の1へと引き下げるという決定である。私も臨時委員を務めた中央教育審議会の義務教育特別部会の答申は、負担率2分の1を含め、現行制度の堅持を主張したが、その意見は取り入れられず、「制度堅持」と一般財源化の両者を立てる「政治決着」がなされた。しかし、依然として三位一体の改革の第二期分として、残りの3分の1も地方に一般財源として移譲すべしとの声は知事会などで根強い。来年度も、この問題のゆくえは油断ならない。

 今回のこの決着に至る過程を当事者の一人として見てきて、日本の教育政策の決定過程や教育行政のあり方が大きく変わりつつあることを実感した。大枠の政策パッケージの決定が先行し、そこには教育の専門家が入ることなく政策の大筋が決められる。そして、その大枠が今度は教育行政や教育政策の決定の場に降りてくる。そういう政策決定の方式が定着してきたのである。今回の三位一体の改革もその典型であり、まもなく発表される規制改革・民間開放推進会議の答申もその一例となるだろう。

 「地方分権」や「小さな政府」、「規制緩和・民間開放」といった、それ自体の大きな方向性には反論のしにくい大枠が示され、官邸主導で政治目標として決定される。そして、その各論として、教育なら教育についての議論が各省庁に降ろされる。ところが、すでに決定された大筋に逆らおうものなら、「抵抗勢力」「守旧派」とのレッテルをはられることになる。

 やがて発表される規制改革・民間開放推進会議の答申案では、教員の質の向上を目指した免許・採用制度及び教員評価制度の改革と称して、教職免許をもたずとも教壇に立てる教職の自由化の拡大が提案される。教職についた後で、事後的に免許を取ればいいというのだ。これまでの教員養成制度はうまくいっていないとの判断が前提としてあり、将来の教員不足を補う上にも効果があるという。また、義務段階の学校選択制度を徹底させる案が盛り込まれる可能性もある。さらには、公立の小中学校を含めたバウチャー制度までが視野に入っている。消費者=顧客の選択優先を謳う、市場化原理の義務教育への導入である。それを背後で支えるのが、専門家支配への暗黙の批判だ。

 従来であれば、大きな方向づけを変える場合には、臨時教育審議会や教育改革国民会議といった、教育の議論を専門とする特別の審議会や首相の諮問機関をつくって、教育の大枠が論じられた。その賛否はともかく、曲がりなりにも教育の専門家もメンバーに加わり、教育現場の声を聞きつつ審議が行われた。それが実際にどのような政策を生み、日本の教育をどのように変えてきたかはともかく、教育を中心に議論が組み立てられてきたことは間違いない。ところが、構造改革特区のやり方や、独立行政法人の導入、そして今回の三位一体の改革と、官邸主導の改革路線のもとでは、教育独自の議論が十分尽くされないままに、つぎつぎと新しい枠組みが導入され、それが教育政策にも適用される。その結果、教育がどのように変わるかについての議論が欠けているから、現場はいきおい、ついていくので精いっぱいになる。国立大学法人化もしかりであった。

 まるで、教育の専門家や現場の関係者をメンバーに入れるとまともな議論ができない、といわんばかりに、教育関係者が大事な決定の場から排除される。そして、教育関係者がいる場に議論が降りてきたときには、すでに大枠は決められており、あとは微調整をするだけになる。これでは審議会の役割も、文科省の政策決定能力も変わらざるを得ない。とりわけ、これだけ大きな与党勢力を作り出してしまった以上、当分は、こうした政治手法で、大鉈が振るわれるのだろう。さらには、それを仕方のないことと思い込んでしまうほど、従来の教育関係の審議会も、文科省も、専門家も十分な信頼を得ていない。信頼が揺らいだ空隙を狙われるかのように、「政治主導」「官邸主導」の決定が降りてくる。

 信頼を抜きに教育は成り立たない。それを一番よく知っているのは教師である。ところが、教育界全体が、政治の世界で大きな信頼を失ってしまったら、いったい誰がこの国の教育の将来に責任を持てるというのだろうか。大枠提示の政策パッケージのもとで、教育が独自にどのような影響を受けるかを見すえないまま、つぎつぎと「構造改革」が進む。教育の現状への国民の「不満」や「不信」がそうした改革を後押ししている。

 こういう時には、辛抱強く、それぞれの現場で力をため、地道に信頼を回復していくしかないのかもしれない。そして、どんなレッテルを貼られようと、正しいと信じることを大きな声を上げて言い続けるしかない。聞く耳を持つ人が少しでもいることを信じて。

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