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苅谷剛彦(かりや たけひこ)

1955年東京生まれ。東京大学大学院教育学研究科¥教授。米国ノースウェスタン大学大学院で社会学博士を取得。専門は、教育社会学、比較社会学。主な著書に『階層化日本と教育危機』(有信堂、第1回大佛次郎論壇賞奨励賞受賞)、『教育改革の幻想』(ちくま新書)、『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)、『知的複眼思考法』(講談社)、『教育の世紀』(弘文堂)、『考え合う技術』(共著、ちくま新書)ほか多数。

最終回 「格差社会」のゆくえ

2006/02/25

 新聞報道によれば、自民党大会やそれに引き続く国会論戦の場で、「格差社会」について議論が行われた様子である。小泉首相が、内閣府の調査結果をふまえて、「所得格差は拡大していない」旨、発言。それを受けて、小泉改革が格差社会を作り出したかどうかの認識をめぐる意見が戦わされたという。

 「格差」や「下流社会」をタイトルに冠した本がベストセラーになったり、格差をめぐる世論調査の結果が新聞の一面を飾ったり、まるで「格差ばやり」の印象である。5年前に「意欲格差社会」という言葉を副題につけた著書を刊行した私としては、隔世の感がある。しかも、しばらく日本を離れて(実は、前々回のこの連載執筆のころからオックスフォード大学で在外研究に従事している)、遠くから新聞やネットでしか日本の報道に触れていない私にとっては、一見、こうした論争についての報道から、格差社会が次なる政策課題と結びつく大きなテーマとして取り上げられているかのように見えてしまう。だが、どこまで論点が掘り下げられているのだろうか。

 朝日新聞が発表した世論調査(2月5日)の結果によれば、回答者の74%が「所得の格差が広がってきている」と思うと答えており、しかも、そのうちのおよそ半数がそれを問題だと見なしている。他方、競争が「社会の活力を高めると思うか」については、59%が「高める」と答え、さらに「いまの日本は、一度おくれをとると、挽回できない社会だと思うか」に「そうは思わない」と回答した人が60%に及んだという。格差拡大に警戒感を示しつつも、競争自体を否定するわけでも、チャンスの閉塞した社会だとも思わない。やや強引なまとめ方をすれば、あまりの格差拡大はいやだが、フェアな競争が行われるなら、その結果としてある程度の格差は容認する、というのが「世論」と呼ばれる人びとの意識だろう。景気の回復を追い風にした小泉内閣の民営化路線が、微妙なバランスを保ちながら支持される理由も、その辺にあるのだろう。

 たしかに、画一的な「結果の平等」を求めるよりも、多少の格差は生じても、フェアな競争が行われる「活力ある」社会をめざす動きは、日本に限らず他の先進国に共通する。とくに、80年代までに福祉政策が行き詰まりを見せたイギリスに住んでいると、保守党であれ労働党であれ、「結果の平等」にウェイトをかけた、昔ながらの手厚い福祉国家に戻ることは難しいことのように見える。

 ブレア政権の教育改革も、手厚い福祉政策に変わり、教育がその任を担うという政策変更の表れであった。失業保険の充実や完全雇用の実現より、「十全な雇用可能性」を保障する教育への投資政策。そこには、教育を通じてフェアな競争を実現させようという意図が込められていた。他の予算を削ってまで、教育に財政的なてこ入れが行われたのも、フェアな競争社会の実現にとって、教育が重要な役割を果たすとの見込みがあったからだ。

 イギリスでは、来年度以後、日本でいう一般交付税を削って、税金が確実に義務教育に回されるよう使途目的を限定する「義務教育特定負担金」を実施する。しかも予算増も図る。口先だけで「フェアな競争を」というのではない。予算の仕組みの変更や増額という実態を伴って、義務教育をフェアな競争の土台として位置づけようとしているのである。

 フェアな競争を保障する仕組みは、日本ではどのようになっているのか。この1年に及ぶ連載を通じて論じてきたように、私にはその土台が崩れかけているように見えてならない。とくに小学校のうちから拡大する学習意欲や基礎的な知識習得の格差は、将来の挽回のチャンスをより狭めてしまうだろう。

 現在の問題としてだけでなく、将来の問題として、「教育の地殻変動」のような構造変化をふまえて格差社会を論じる。そういう奥行きのある議論は、なかなかこちらには伝わってこない。

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