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第5回 国際化する大学教育の現状-「知の鎖国」から抜け出すために-

2004/12/25

 わが国の高等教育、つまり大学教育は今後いかなる方向に展開すべきか、という重要な課題をめぐって、このところ文部科学省中央教育審議会の大学分科会では、ほぼ毎週のように真剣な議論を行っている。わが国の高等教育の在り方に関し中央教育審議会は、従前の大学審議会が策定した平成十(一九九八)年の画期的な答申「二十一世紀の大学像と今後の改革方策について-競争的環境の中で個性が輝く大学-」および平成十二(二○○○)年の答申「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について」を受け継いで、「わが国の高等教育の将来像」と題する「中間報告」を現在まとめつつある。右の二つの答申があるのに、なぜいま新たに「高等教育の将来像」が討議されねばならないのか。

 その理由は第一に、国際社会の変動がさらに急速に進みつつあり、たとえばアジア太平洋地域の高等教育機関におけるe-Learningの著しい普及に見られるように、好むと好まざるとにかかわらずグローバル化がさらに進展するなかで、わが国の高等教育が国際比較上も大きく立ち遅れかねないからである。この点はわが国の大学教育における外国語教育、とくに英語教育をアジア諸国と比較して見れば、さらにいっそう歴然とする。日本の多くの大学が依然として、「日本人が日本人に日本語で教えている」現状を抜本的に改革しない限り、日本の大学はいわゆる「知の鎖国」から抜け出せないであろう。これでは二十一世紀の国際的な「知識基盤社会(knowledge-basedsociety)」についてゆけなくなるのではないか。

 第二の理由は、第一の理由と矛盾するように思われるが、一方でわが国の大学がいよいよ誰でも大学に入れるという大学大衆化時代の本格的到来に直面していることである。「二○○七年問題」といわれるように、いまから三年後には大学志望者と大学の総定員がほぼ等しくなるので、大学は受験生にとって選ばれる対象から選ぶ対象へと転化する。これを米国の社会学者マーチン・トロウの言葉を借りて、大学への「ユニヴァーサル・アクセス」の時代といえばいささか格好がよいのかも知れないが、実際にはわが国高等教育の質の大幅な低下につながりかねない危険をはらんでいる。ましてや規制緩和の時代的趨勢のなかで大学の設置認可が容易になっているだけに、この危険はより切実になろう。現在でもわが国には四年制大学だけで七百九校もあることを知ったら、多くの読者は考え込んでしまうであろう。 このような状況において、さらに真剣な検討が加えられねばならない課題が、わが国における大学院の在り方である。欧米の優れた大学院は、研究のみならず、きわめて質の高い教育の場、教育の過程になっているが、果たしてわが国の大学院はGraduateSchoolと呼ぶにふさわしい「スクール」になっているだろうか。私自身、カリフォルニア大学サンディエゴ校の大学院(GraduateSchoolofInternationalRelationsandPacificStudies)の客員教授として一年間教鞭をとった経験をもつが、教師も学生も毎時間が真剣勝負で、実に厳しい試練の課程が積み上げられてゆく。日本の大学院はこの点があまりにも安易であり、この差がやがては国際社会での日本のリーダーシップと存在感を損なってしまいかねない。このような前提でいま中央教育審議会大学院部会では真剣な討議が続き、去る八月に公表した「大学院部会における審議経過の概要-国際的に魅力ある大学院教育の展開に向けて-」をもとに、人文・社会系、理工農系、医療系の三つのワーキンググループを作って精力的に検討している。私は、その部会長として重い責任を痛感している昨今である。

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