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矢野 眞和(やの まさかず)工学博士。専門は高等教育政策、社会工学、教育経済学。著書に『大学改革の海図』(玉川大学出版部)など多数。

第2回 「金融教育」の前に「税金教育」を

2008/05/02

 日本の大学は、「社会のための大学」から「個人のための大学」に大きく変質した。しかし、この流れに沿って未来を構想するのは、賢明な策ではない。むしろ逆に、「社会のための大学づくり」に舵を切り返すのが、次世代の若者にとっても、社会全体にとっても、有益な選択だ。そのように判断する証拠を実証的分析に基づいて紹介するが、その前に、議論の前提となる次の二つの事柄を確認しておきたい。

 一つは、教育のために支出されている税金の意味を深く理解する必要があること。いま一つは、「精神論」ではなく、「政策論」がなければ、教育は決してよくならないこと。後者については次回に説明する。まずは前者から。

 金融資本ないし株式は、資本主義社会の血液である。血のめぐりが悪いと経済が停滞する。この血液のダイナミズムをあらわにしたのが、ライブドアの「ホリエモン」だった。彼らが元気な頃の活躍に重ねられて、「未来の経済を活性化させるためには、子どもの頃から金融資本の重要性を教えないといけない」と指摘されていた。

 そして、大学のみならず、高校・中学でも、金融教育のカリキュラムが導入されるようになった。とてもいいことだが、金融教育の前に、税金の教育が大事だといいたくなる。つまり、資本主義教育の前に、民主主義の教育がなければならない。日本の学校は、民主主義の根幹である税金の役割をしっかり教えてこなかった。

 租税のシステムは、政治が社会的正義を実践するための手段である。つまり、税金は社会道徳の実践だ。政府は、見知らぬ他人から税金を徴収し、そのお金を見知らぬ他人に再分配することによって、正義を実現する。税金は全員参加による“助け合いのマネー”だ。
 スキャンダラスな税金問題には敏感だが、トータルとしての税金がどのように使われているかについては、大人たちも驚くほど無関心だ。この長い無関心と監視の喪失が、スキャンダルを産む土壌をつくってきた。

 道徳教育を語るなら、何よりも税金の教育からはじめなければならない。税金(見知らぬ他人)のお陰で自分の子どもの義務教育が無料になっていることを忘れている。公立高校の授業料が月1万円ほどで済んでいるワケも考えたことがない。ましてや、私立高校にも公的補助金が支出され、その金額が教育費の3割から5割ほどを占めていることなど思いもよらない。学校だけでなく、公立図書館、ゴミの収集、さらには医療・福祉・道路など、税金の使われ方を知ることは、社会の道徳を知る基本の基だ。税金が少なくなることだけを喜んでいる大人の姿はまことに見苦しい。

 その一方で、「わが子さえよければいい」と思う親が確実に増えている。いじめや学力低下が社会の話題になればなるほど、親としてわが子だけでも守りたいと考える。学校が信頼できなければ、塾に行く。公立よりも私立を選ぶ。しかし、親たちが心の底からそれを望んでいるわけではない。不安と恐怖が「わが子さえよければいい」という思いに拍車をかける。

 その結果、教育費が家計を圧迫する。家計が塾などの学校外教育費に支出する金額は、3兆円ほどに達する。3兆円という“助け合いのマネー”(税金)が集まれば、学校の学級規模を30人未満にするのは簡単だし、同時に、大学の授業料も半額にできる。個人で解決するか、助け合って解決するか。その選択を視野に入れるのが、税金を理解するということだ。

 自己利益で行動することを正統化したのが、資本主義という制度だが、それだけで社会が成り立たないから、租税のシステムがある。そして、税金の使い方を決めるのが選挙だ。子どもも、若者も、大人も、「税金と選挙」の民主主義を勉強しないと「わが子(自分)さえよければいい」という者ばかりが増え、助け合いの教育と助け合いの社会をつくることができなくなる。そういう分岐点に私たちは立っている。

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