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矢野 眞和(やの まさかず)工学博士。専門は高等教育政策、社会工学、教育経済学。著書に『大学改革の海図』(玉川大学出版部)など多数。

第4回 不思議な50%進学率

2008/07/01

 現在の大学改革では、「質とアウトプット」に議論の焦点が集まっている。そして、大学は多すぎるほどまで拡大したから、量ではなく質を向上させる制度的改革を実施すべきだという。もっともらしい正論のように思える。しかし、そのまま鵜呑みにすると大怪我をする。怪我をするのは、今の大人ではなく、次世代の若者だ。若者が正論に騙されないようにするためには、次の二つの事柄を踏まえる必要がある。第一に、アウトプットばかりに目を奪われてはいけない。「政策論」の基本は、「インプットとアウトプットの『関係』を理解する『実証的分析』に基づいて、資源配分を変更し、教育を良くする方向を探索する」ことにある。

 第二に、質だ、アウトプットだ、と騒がれているが、それらを測定する物差しは、世界中を探してみても、特段に目新しいものがあるわけではない。過去の研究蓄積から分かっていることは、次の三つぐらいだ。第一は、大学生ないし卒業生の数。つまり、大学の規模。第二は、卒業生の学力。第三は、仕事および生活を通した教育の成果。代表的なのは、雇用と労働の領域であり、その集約的なアウトプット指標が所得。

 「質とアウトプット」が大事なのは十分承知しているが、問題を発見し、解決するためには、「規模、学力、所得」の実態を押さえておかなければならない。ところが、この三つのアウトプットさえ分析されていないのが現実だ。この連載では、この三つを指標とした「政策論」を展開する。

 まず、規模から話をはじめる。大学の進学率はほぼ50%。「半分も大学に行っているのは多すぎる」とみるか、「半分しか行っていない」とみるか。前者の過剰説が多数派だと想像される。しかし、私には、過剰だと言い切る人の感覚が理解できない。50%進学率は、社会的に歪んだ状態であり、矛盾に満ちた不思議な状態だからである。私の気持ちを説明しておこう。

 教育基本法には、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じて教育を受ける機会を与えられなければならず、-」とある。「能力に応じて」の解釈は難しいが、能力が同じでないのは確かだ。神の摂理に従えば、能力は正規分布していると考えるのが自然だろう。


 図が正規分布。能力の高い人(右側)から低い人(左側)までばらついているが、真ん中の平均的能力の人が最も多く、平均から離れるほど人数が少なくなる釣鐘状の分布である。真ん中の平均値(ゼロスコア)までの半分に含まれる人数割合が全体の50%。もし、能力の順(図の右側から)に進学していれば、右半分が進学者の割合(進学率)になる。したがって、この場合、平均値が進学/非進学を決める線引きになる。しかし、そのような線引きを正統化する根拠はないし、中央で止まるというのは、いかにも不安定な状態だ。平均のまわりに分布する人数が最も多く、その能力にほとんど差がないからだ。平均値を有名な偏差値で表せば、50点。図のわずか±0・2(偏差値52と48)の間に全体の16%が含まれる。±0・5(偏差値55と45の間)を考えれば、そこに全体の38%が集中する。偏差値55を選抜の基準とすれば、進学率は31%になる。45までの入学を許容すれば、69%の進学率になる。31%進学率も69%進学率も、「能力に応ずる」の解釈からして同じだと私は思う。

 現実の50%進学は、図のように不安定な線引きによる結果ではない。能力によって進学/非進学が決まっていないのだ。能力が平均よりも低いにもかかわらず、大学に進学しているものがいる。その一方で、能力が平均よりも高いにもかかわらず、進学していないものがいる。だとすれば、能力が平均以上であるにもかかわらず、なぜ、進学しないのか。そこに社会的な矛盾はないのか。教育基本法の精神が実現しているといえるのか。50%進学という不思議な状態を解明することなく、「半分も進学しているから」という理由だけで、大学が過剰だと判断する人の感覚が私には理解できない。

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