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第1回 ギャップタームのパラドクス

2012/09/04

大学改革の行方

第1回 ギャップタームのパラドクス

                                 本田 由紀


 大学改革の風圧が、ここのところいっそう増している。周知の通り、今年3月には中教審大学分科会大学教育部会が学生の学修時間の増加を強調する審議のまとめを提出し、また東京大学は秋季入学への移行を積極的に推進している。さらに65日には、文科省が「大学改革実行プラン」を発表し、多岐に渡る改革を提唱している。

 むろん、このような大学改革圧力の高まりには、相応の背景がある。1990 年代以降の大学進学率上昇は、日本でもとより明瞭だった大学間の階層構造の裾野を広げる形で拡大し、大学や大学生の中には格差化と多様化が進行している。同じ時期に顕在化した経済低迷により新規大卒労働市場は厳しいものとなり、就労の面でも大学教育の価値は見えにくくなっている。しばしば言われるように、大学教育の「質保証」が根底から揺らいでいる状況にあることは確かである。

 しかし、だからといって、現下で進められている改革の方向性を無批判に受け入れていいことにはならない。本連載では、大学改革の行方についての筆者なりの検討と提言を行うことを試みたい。

 今回はまず、上述の東京大学の秋季入学に関して、今後重要な争点になると考えられる「ギャップターム」を取り上げたい。

 これは、3月末の高校卒業から9月の大学入学まで、また8月末の大学卒業から4月の入社までの各半年間の期間に対して東京大学が与えた呼称であり、秋季入学のメリットとして海外の学事歴との整合と並んで大きく打ち出されている点である。

 上記の報告書によれば、ギャップターム中に社会貢献、国際交流、勤労体験などに従事することで、学ぶ目的の明確化などの効果が期待されるという。

 しかしながら、こうしたメリットがどれほど確実に期待されるかは疑わしい。

 ギャップタームは、その期間をどう活用するかを学生に任せれば家庭の持つ諸資源を反映した格差の温床となったり、海外体験などを商品として提供する産業の好餌となったりする。

 逆に、それを補うために大学側が一定のプログラムを提供すれば大学教育との区別が曖昧になって実質的な修学期間延長になってしまう。

 つまり、「自由な」期間を意図的に制度化すること自体が、解決困難なパラドックスをはらんでいるのである。

 以前から大学進学前の「ギャップイヤー」が実施されているイギリスにおいても、その経験者の比率は大学合格者中の76%にすぎない。さらに、ギャップイヤー中に何を経験するかが学生の経験やキャリアに格差=ギャップを拡大するという指摘がすでにある。

 また、卒業後のギャップタームは、企業側が採用や入社の時期を変更することによって、いとも容易に消滅する。

 ギャップタームは、社会人入学やパートタイム就学と並んで、高校から大学、大学から仕事への接続における柔軟さを全般的に拡大するという、より大きな枠組みで構想される必要がある。

 そもそも入学時期の問題は、大学改革への関心を高めるカンフル剤としての意味しか持ち得ないし、グローバル化だけが改革の目標とされるべきでもない。

 より根本的な課題である、大学教育の本体たる教育内容の質をどのように高めることができるかということについて、次回以降では論じていきたい。

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