トップページ > 連載 社会の地殻変動と大学 > 第10回 新しい教養

前の記事 | 次の記事

第10回 新しい教養

2016/03/03

 これまで9回にわたって、①なぜいま「高大接続」改革か、②高校生は大学進学にどう準備すればよいのか、③大学でどう学ぶか、の三つについて述べてきた。
 最終となる今回は、これからの社会に向けて、「高校、大学を通じて若者は何を得ることが求められているのか」について考えていきたい。それはいわば次の世代が持つべき「教養」とは何か、という問題ともいえる。

 これまで私が強調してきたのは、学力には三つの層があるということだ。第一は教科や学問分野に体系化された知識とその理解、第二はより汎用的なものの考え方と他者とのコミュニケーション能力等、そして第三は、自分自身の捉え方、将来への抱負、意欲といった人格的な土台だ。

 このように重層的なものとして知識・能力を捉えるのは、文部科学省が謳っている「学力の三要素」という考え方とも相通じる。
 こうした捉え方は、実は日本だけではなく、国際的にも力を持ってきた。なぜかといえば、それには現代社会の在り方そのものが変化してきたからだと私は考える。
 19世紀から20世紀にかけての産業化を中心とする経済社会発展は、いわゆる近代科学技術の直線的な発展に乗って進んできた。その中では体系化した学術知識を体得することが、仕事にも有用であり、またそれが個人の評価にもつながった。そういう知識を実際に使わない人たちについても、やはりそうした体系的知識を吸収する能力が社会の判断の基準となり得たのである。それが日本だけではなく、世界中の学歴主義の基盤にあった。
 こうした構造はなくなるわけではない。教科・学術型の知識の重要性は変わらない。
 しかし社会が要求するものはこれまでに比べてはるかに多様化しつつある。物理的な生活条件・快適さだけではなく、情報や文化への多様な需要が経済を突き動かす。しかもその発展の焦点が次々とシフトする。またグローバル化がそれを加速する。産業・職業の多様化・流動化こそが常態となるのである。
 そうした中では、一面で新しい変化やニーズを敏感に捉えるのと同時に、これまでにない状況に際して、自分なりの観察や考え方を持ち、発展させることが重要である。しかもそれを他の人々と協同して行い、その中で自分自身の目的と役割を自覚し続けることが求められる。
 ただしそれは他方で、いわば分裂した表面的な人間を作る可能性がないわけではないともいえる。偏些な知識と偏狭な考え方、狭量な自信が三つの層をなすこともある。いわゆる「無気力」な若者の底にあるのは、むしろこうした分裂した心性なのではないだろうか。
 こうしてみれば重要なのは、知識と思考能力、自己認識の三者を、一方ではそれぞれオープンな環境で鍛えること、他方でそれと同時に、その三者を常に自問し、自分の中で統合させていくことであろう。
 それは若者が一人だけでできるものではない。それを誘導する場となることこそが、高校や大学などの、青年期の学校の役割であるというべきものであろう。
 そのためには、教室の授業だけでは不十分なことはいうまでもない。社会や自然、新しい知識との遭遇による経験、学生・教員との討論・作業、それらを自分の中に統合させる自律的な学習。こうしたものが組み合わされることが必要不可欠である。

 自己の内と外との緊張の中でのダイナミックな関係は、いったん形成されれば、それ自体が一つの能力として生き続ける。それは一つの知性のクセといってもよかろう。
 幅広くものを知っていることが教養なのではない。こうした知性のクセこそが新しい意味での「教養」というべきものなのではないだろうか。
 そうした意味での教養を、若者に身につけさせる過程をつくることこそが、高大接続、高校・大学教育改革の究極の目的だと考える次第だ。

[news]

前の記事 | 次の記事