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第1回 「高大接続論」の膨張

2016/07/06

連載 高大接続の理想と現実

第1回 「高大接続論」の膨張

中村高康

 「高大接続」という言葉が教育界で流行語のように語られるようになってすでに久しい。私自身も高大接続の関連書を出しており、その中で「高大接続」のコーナーまで作っているので、人のことはとやかく言えない身である。しかし、その書籍を作る過程で、さまざまな高大接続論を調べていくうちに大いに感じたことがある。それは、「この言葉は少々安易に使われ過ぎているのではないか」ということであった。高大連携と高大接続を混交してしまうような初歩的な誤解は論外としても、やはりその語義は拡大しているのではないかと思われるのである。
 もともと教育システムの接続問題といえば、下級学校段階と上級学校段階の間で、進学希望者がいても進学しにくい制度的構造を持っている場合や、教育内容の上でうまく橋渡しされていない場合などを取り上げて議論されてきたのである。前者の例としては、戦前の実業学校から旧制高等学校への進学が制度上 かなり困難だったと言われていることなどが該当するだろう。後者については、現在の専門高校のカリキュラムが必ずしも大学の一般入試に対応していないと いった点を挙げれば分かりやすいだろう。いずれにしても、接続とは、そうした制度的な断絶に対して、主に注目して語られていたのである。
 ところが、近年では、高大接続はもっと広範な適用範囲を持つ言葉となっている。その第一の貢献は、大学入試センター名誉教授・荒井克弘氏の高大接続論によってなされた。荒井氏の高大接続論は、大学進学率の上昇によってこれまでは大学に受け入れられてこなかった層(特に学力層)に対して、大学は教育をしていかなければならないという、高等教育の構造変動を踏まえた高大接続 論だった。ここでは学生の学力やメンタリティが接続の対象に含まれてくる。大学のユニバーサル化(普遍化)が言われる昨今、この解釈は極めて説得的であ る。大学進学率が急上昇した90年代以降、高大接続は制度的接続の範囲を超えて、おそらく新しい接続問題に対峙しなければならない局面を迎えたのである。
 ここまではいい。しかしながら、私が理解に苦しむのはここからである。私が昨今の高大接続の議論に関して分からないと思う点は、あえて単純化して述べる とすれば二点ある。
 一つは、高大接続論が荒井氏の議論の範囲を大きく超えて、教育改革全体を牽引するような位置にまで引き上げられていることである。本来、高大接続が直接問題化しうるのは、同年齢人口のおよそ半分に関してである。そのうえ、これまで教育現場で実際に問題だったのは、「分数のできない大学生」やリメディアル教育が必要な学生などであり、大学入学者すべてについての話ではまったくなかった。そのようなトピックを改革論議の中心に据えた場合、当然ながら見落とされる部分が出てきてしまうのではないだろうか。
 そしてもう一つは、なぜ高大接続を議論しているのに、入試制度ばかりをいじる方向に全体が流れていってしまうのか、ということである。確かに、入試制度は高大接続のシステムを構成する大きな要素ではある。しかし、昨今出てきている大学入試改革は、おしなべて上からの改革であり、大学や高校のニーズをそのまま反映したものにはなっていない。高大接続の名のもとに、そこまで入試制度を弄い じり回すことにどれほどの意義があるのだろうか。
 この連載では、第一の疑問に関連して、一般的な高大接続の議論では脇に追いやられがちな層の人たちの進路選択問題を中心に取り上げてみたい。また、連載後半では、第二の問題に関連して、現在進行中の入試改革について、考察してみたいと思う。これらの考察を通して、高大接続の理想と現実のギャップがいかほどのものであるのかを考えてみたい。

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