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第8回 「人物重視」に潜むリスク

2016/12/14

連載 高大接続の理想と現実

第8回 「人物重視」に潜むリスク

中村 高康

 前回論じたように、入試の多様化は、論理的には多様な生徒の選抜を行えるとは限らない。そして、これだけならまだ罪は軽いが、もし多様な選抜方法がすべての大学に一律に求められるのならば、実際には別の、さらに深刻な問題を引き起こす可能性がきわめて高い。
 それは、入試当日の成績だけではなく、日常生活全般にわたる要素が、すべて受験勉強に結び付けられかねない状況が生まれ得るということである。
 例えば、学力テストのほかに調査書を選抜資料として使うことは、入試多様化としてこれまで積極的に推奨されてきたが、その場合、受験生は学力テスト対策に加えて学校の成績向上対策も行わなければならなくなる。さらには学校の出欠状況や生活態度、クラブ活動も対策に組み込まれる事態が容易に想定される。そうなると生徒は勉強以外の生活態度全般が評価対象となるため、一体いつ受験勉強から解放されるのかという話になる。
 ボランティア活動や趣味的な活動の表彰歴なども選抜資料になることが増えているが、そうなると受験のためにそうした活動に参加しようとする高校生が出てくる。それまで純粋な気持ちから参加してきたボランティアや、楽しいからこそやってきた趣味活動が受験に強く結び付けられ、場合によっては大きく歪められることになる。
 同類のことはすでに高校入試で何十年も前から問題視されてきたことでもあるのだが、提案する側にその認識が一体どれだけあるのか。疑念は深まるばかりである。
 さらに問題は受験準備段階だけにとどまらない。「人物」や「個性」を選抜するために入試が行われた場合、その選抜過程にも問題は生じ得る。今回の高大接続改革を方向づけてきた教育再生実行会議の議論が話題になっていたころ、今度の入試改革では「人物重視」に舵を切るのだ、といった報道がなされたこともあった。さすがに「人物重視」は評判が悪かったらしく、その後は報道や発言でもそのような表現は見られなくなったが、面接や志望理由書などを通じて意欲や態度を評価することが現時点でも推奨されていることには変わりはない。そして、そうした選抜の場合、受験生の「人物」だけではなく採点者側の「人物」要素が結果に混入しかねないのが、この手の選抜の非常に難しいところである。
 一般論ではあるが、面接で試験の合否を決めるのはきわめて困難な作業である。受験生の側も精一杯練習してくるので、短時間ではっきり分かるのは、特に受け答えの上手な生徒と特に下手な生徒だけで、中間にひしめくボーダー層は見分けがつきにくい。そこを無理やり合否判定するわけであるから、採点者個人の感情や思想を完全に排除することの方が逆に難しいとも言えるだろう。
 企業の採用選抜ではしばしば「人物重視」と称して面接が行われるが、決して美しい世界ではない。なぜそれが大目に見られているのかと言えば、それが私企業だからであり、きわめて強く公共的使命が付与された教育機関の選抜方法とは、事情がまったく異なるのである。
 加えて、「人物」を基準とする選抜はその選抜結果も悩ましい事態を生み出すだろう。なぜなら、不合格になった場合は、合格者に比べて「人物」で劣ると判断されたことになるからである。不合格者には実に救いのない選抜方法である。これが、教育的に優れたシステムだと果たして言えるのかどうか。
 もちろん、意欲や態度を評価する選抜そのものを全否定する気はない。たとえ方法論的に確立していないにしても、世の中にはそうした評価が必要な場面もあるからである。しかしながら、それがシステムとして一律に導入されるのだとすれば、相当のリスクを伴うということを我々は常に覚悟しなければならないはずである。


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