【第15号】
2002/06/25
6月、日本中に爽やかな青い風が吹いた。日韓共催の2002FIFAワールドカップにおける日本代表の活躍は、熱い期待を呼び、日本中をサポーター化したかのようだった。
スタジアムでは、代表と同じユニフォームを身に付けた文字通りの老若男女が、当然のこととして『君が代』を歌い、日の丸を振る。そこには、いささかの構えやてらいもない。見知らぬ他人と肩を組み、声を枯らして「ニッポン」と連呼する。
サッカーが合言葉となり、日本代表のグループリーグ突破が目標となり、人と人を繋いだ。日本と世界を繋いだ。そして共催国韓国の驚異的な活躍と赤一色の桁違いの応援は、刺激を与えてくれた。全てが素晴らしいだけではないが、少なくとも今の日本に活気を与えたといえるのではないか。
最近の様々な意識調査等の結果からは、小・中・高校生から『感動』や『希望』といったものが感じられなくなっていることが伺える。「何をしても大したことない」といったような思いは、『感動』や『希望』を奪い、自らを肯定しえず、目標を見出すことを不可能にする。そしてそれは、他者との関わりを希薄にする。若者と社会の接点は狭まるばかりで、コミュニケーションの取り方を学ぶことはできない。
では、本当に「何をしても大したことない」のだろうか。今回の狂騒とも言えるワールドカップの盛り上がりはなんだったろう。実は誰もが希望を持ち、感動をしたかったからとはいえないだろうか。そして、ここで知った『一体感』や『感動』は、『頑張る』ことの素晴らしさを与えてくれなかっただろうか。
来年度、高校で行われる『総合的な学習の時間』は、まさしくそうした『感動』を高校生自身が、我が身のこととして実感するための時間であり、『生きる力』を生徒自身が見出すためのものとなるべき時間だ。小・中・高校で、その意義が理解され、実践されるとき、高等教育機関はその『生きる力』を具体化する場となる。そしてその時、高等教育機関自身が、次代を担う若者を育成する場として再生、飛躍するに違いない。