【第36号】
2005/12/25
日本漢字能力検定協会の2005年を表す漢字に「愛」が選ばれた。愛・地球博に代表される明るい出来事の一方で、小学生を狙った凶行など、「愛」とは対極にある事件が起こったことも、その選考の理由だという。
12月には京都の学習塾で、教える立場にある者によって児童の尊い命が奪われた。どんな憎しみがあったというのか。いや、強い感情など何もなく起こった事件ではなかろうか。
愛の実践者マザー・テレサは、くしくも「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と言ったが、最近の事件には人間や命の存在に対する無関心さがあるように思える。無関心が蔓延し、その乾いた心が事件を引き起こしている……。
先日、教育社会学を研究するお茶の水女子大学の酒井朗教授から、進路指導に関して、単に「生徒が決めたからよい」という姿勢は、教育者として無責任だとのお話をうかがった。たしかにそこには生徒の自主性を認めているようで、本気で子どもに向き合っていない、ある種の無関心さが感じられる。何気ない言葉の中に、無関心は潜んでいるのである。
教育に、社会に「愛」はあった方がいい。愛は必要である。とはいえ、その実践は難しい。けれど、無関心から抜け出すことから始めようと考えれば、進むべき方向は見える気がする。自分のできるところから始めればいい。それが「愛」につながっていく。